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カントの哲学について

超解読 はじめてのカント『純粋理性批判』(竹田青嗣著)に基づいてカントを学びます。

現代では、カントの哲学は、形而上学だとして、批判されている。「神とは何か」、「世界とは何か」、「なぜ人間は生きて、苦しむのか」、「死とは何か」というような「世界の存在と意味の謎」を形而上学と呼んでいる。今でも、これを哲学の本領だとする哲学観は、一定程度生き残っている(とくに日本はこのような形而上学的哲学は根強い)。

ところが、ヨーロッパの現代哲学・思想では、形而上学はすでに終焉したスコラ哲学の遺制とみなされており、近代哲学も、この形而上学の残滓であるとして長く批判されてきた。

こうした意味で、カントも批判されているのだが、竹田の説では、カントの『純粋理性批判』は、哲学を、スコラ哲学的な「形而上学」から「人間の本質」についての哲学に取り戻した点に最大の功績がある、と述べるのである。

カント以前の、哲学にはスピノザを代表とする大陸合理論とヒュームを代表とする経験論が対立していて、カントはこれを統合した、というのである。

スピノザの考えは、世界はそれ自体が唯一、永遠なる神である、とする合理的推論による理神論、これに対して、ヒュームの考えは、絶対的に正しい世界像は存在せず、すべてはさまざまな文化が習慣的に形成している世界像にすぎない、という徹底的な相対主義的経験論だった。

実は、このスピノザの考えのような、形而上学的独断論とヒュームの考えのような相対主義的懐疑論の対立は、2500年の哲学を、眺めてみると、ず~っと続いてきたことであった。

カント以前は、私たちの外側にある世界はどうなっているのという問うてきたが、それに対して、カントは、私たちは、世界をどのように認識しているかと、認識装置に目を向けるようにとコペルニクス的転回をしたことに意義があった。

カント哲学の大前提は「物自体」は認識できないというものである。私たちの認識装置は、外に出ることができず、物の表象しか見ることができないので、物そのもの、つまり「物自体」を認識できないのである。

そこで、カントは人間の認識能力として感性、悟性、理性の三つを提示し、その構成について詳しく解説したのが本書である。

感性
多様な外的印象(直観)を、空間・時間という形式の枠組みのなかで受取る能力。
悟性
多様な直観をまとめあげ(統合)し、それを一つの概念的な判断へとまとめあげる能力。
理性
悟性による対象の判断から、推論によってその全体像を導く能力。

悟性については、カテゴリーにはめ込んで判断できるように人間は、先験的(頭の中に)に持っているとカントは述べている。

カテゴリーとは、次の四つである。

  1. 分量 
    全体的判断(すべてのAはBである)
    特殊的判断(いくつかのAはBである)
    単称的判断(このAはBである)

  2. 性質
    肯定的判断(AはBである)
    否定的判断(AはBでない)
    無限的判断(Aは非Bである)

  3. 関係
    定言的判断(AはBである)
    仮言的判断(AがBならば、CはDである)
    選言的判断(AはBであるか、さもなくばCである)

  4. 様態
    蓋然的判断(AはBでありうる)
    突然的判断(AはBである)
    必然的判断(AはBでなければならない)

カントによれば、理性が推論の能力を駆使して極限まで行きつこうとする重要な領域は三つある。
①魂(私)とは何か。
②世界とは何か。
③最高存在(究極原因=神)存在するのか。

これらのことがらは、人間の経験の可能性を超えた領域であり、したがって絶対的な認識として検証も確定もできない。だが理性は、この検証不可能な領域でも、推論の能力の極限まで使用して弁証をおこない、その結果、誤謬やアンチノミーに陥るのである。

総じて、カントの 「先験的弁証論」の大きな目的は、近代科学の新しい知見を後盾 として、当時のヨーロッパ人の神学的世界像を打ち倒す点にあったと考えればよい。 さて、つぎが「世界とは何か」という問いだが、この問いの「不可能性」が「アン チノミー」(二律背反)の議論によって検証される。

「世界はいったいどのように存在しているのか」。理性は、この問いについても、や はり思惟の基本の枠組みであるカテゴリーにしたがって考えるから、それはつぎの四 つの問いに分割されることになる。
①(分量) 世界の時間的、空間的な限界はあるのか、ないのか。
②(性質)物体の根本単位(最小単位)はあるのか、ないのか。
③ (関係) 自然原因のほかに、純粋な「自由」という「原因」はあるのか、ないのか。
④(様態) 絶対的必然的な存在(至上存在)はあるのか、ないのか。

アンチノミーの議論の順序は以下である。 まずカントは、このそれぞれのテーゼについて、「ある」という肯定の議論 (正命題)と、「ない」という否定の議論(反命題)の両方を、自ら“証明”してみせる。

そして、正命題と反命題とが、等価な仕方で証明できることを示すことで、これら のどちらの答えも決定的な答えとなりえないこと、すなわち、この両方の「証明」が 弁証的な証明、つまり誤謬推論だったことを明らかにする。

このことによって、「世界はほんとうはどのように存在しているのか」という問い は、人間の理性の限界を超えた問いであること、われわれはこの問いに決して答えら れない、ということが示されるのである。

「アンチノミー」 の議論は、『純粋理性批判』においてもっとも重要なシーンであ る。ここでのカントの議論が深く理解できるかどうかは、「認識問題」という近代哲 学における決定的な主題の核心を理解できるかどうかの試金石だといえる。

竹田青嗣著 超解読 はじめてのカント『純粋理性批判』P219-P220


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