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「ことば」とは何か?(続)

2024年5月5日に投稿した「ことば」とは何か?で竹田青嗣氏は、言語の本質について解明しているの記述しましたが、どのように解明したかについては省きましたので、今回は、記述することとします。

竹田は現象学的還元の方法で解明できると述べる。

現象学 の 方法 の 核心 は「 現象学 的 還元」 の 遂行 に ある。 これ を「 認識論」 の 問題 に 適用 する と、 意識 の 内部において存在妥当についての「確信成立の条件」を問う「超越論的還元」となり、哲学的諸「本質」の問題を扱う場合には、概念や事態の「本質」の意識内的存在様態を問う「形相的還元」となる。

竹田青嗣. 言語的思考へ 脱構築と現象学 (講談社学術文庫) (p.102). 講談社. Kindle 版.

「超越論的還元」の基本的な方法とは、対象存在の客観的な実在性をいったんエポケー(対象の実在を前提とせずに判断停止すること)し、意識内事象と対象の関係についての「原因と結果」を逆転させる変更を行うということです。

竹田はこの方法で言語現象の本質考察を行っています。

言語構造の本格的な現象学的分析を行う前に、その予備作業として、「言語の意味」とは何かについて一定の輪郭づけが必要ということで、ハイデガーの『存在と時間』における「内存在」の分析で、この「意味」とは何かの本質観取を行っているので、これを取り出すことになる。

ハイデガーによる意味とは、

  • 事物存在ではない。

  • 単に数とか概念などの理念的存在ではない。

  • 人間的関係のうちに生起する関係的存在である。

  • 事物存在や理念存在を人間にとってそのようなものたらしめている当の根本的契機である。

となる。

われわれは、さまざまなものが「意味」をもつという。しかしじつは、このとき「意味」をもつのは、人間のありかたそれ自体である。「意味」は、あくまで、人間的関係の現実においてのみ現われる独自の現象にほかならない、と言うのです。

この「意味」のこの関係的存在性について、ハイデガーは以下のように規定した。

人間の「実存」の本質契機は、「情状性」「了解」「語り」という三つである。

「情状性」は、「 気分( = 情動、 感情 など 気持ち の 色合い) を もつ こと」、「 了解」 は、 自分 の 気分 を それ と 気づく ことだが、この気づき(了解)は、潜在的にある新しい存在可能へのめがけをふくんでいる。

「情状性」は情動による自己のかくあったの「規定」であり、「了解」は、それが促す新しい存在可能へのめがけである。

こうして「情状性」と「了解」は、人間存在を、過去ー現在ー未来という「時間性」の中で存在せしめる根本契機であるとされる。

竹田青嗣. 言語的思考へ 脱構築と現象学 (講談社学術文庫) (p.105). 講談社. Kindle 版.

この考え方を、竹田は頭痛の経験から翻案している。私自身も経験していることです。

頭痛がしていることに気づく。つまり不快な気分に捉えられていた自分に気づくことになる。そこで、窓を開け、新しい空気を吸ってみる。しかしこのかすかな頭痛は去らないどころかますます痛さを感じるようになる。そこで頭痛薬かロキソニンを飲もうかと考える。

このような事態とは何かといえば、ある気分(不快、倦怠、不安、欲望、希望など)に捉えられている状態を「了解」し、そしてこの了解が自分の新しい「ありうる」(~したい)の起点となり自分の態度を促す、ということである。ここに「実存」という現象の基本的な原型がある、とハイデガーは説いている。

人間的実存の中心には「気分」があり、これが現存在(人間)という存在仕方の根底をなしている。これを「現事実」と呼んでおく。すると「意味」とは、人間の世界および他者との関係全般の実存論的原理であるが、それは「気分」とその「了解」という実存の現事実性にその存在根拠をもつといえる。気分の「了解」は、「気遣い」という存在可能の中心点を作り出す、と竹田は述べる。

われわれのうちに不快を何らかのかたちで処理(対処)しようとする気遣い(=関心・欲望)を生む。気遣いはまた、われわれの「まわりの世界」の諸対象を、「道具的存在」として開示する。「ありうる」(~したい)は「なすべき」に連接し、「なすべき」はまた、「~のために」という目的性、目標性の創出を介して、事物を「~ための、~として」というかたちで規定された存在(=道具)として開示する。

そして「意味」は、この「気遣い」ー「目的・関心性」ー「手段性」といった実存的連関に分節性、として生起するのである、と言う。

さらに、それが何であるかについてわれわれが気づいたり、考えたり、理解したりできるという事態のうちに、ある対象の「意味」というものがある。

「意味」とは、欲望=関心相関として現われた世界の分節化の連関であるだけでなく、同時にその”了解可能性の連関の構造”なのであって、つねにその中心に各人の実存の核である「気遣い」がある。

だから「意味」は、さまざまな事象の「~のために」と「~として」という秩序において分節された”世界の秩序と色模様”として生じるのだが、つねにその起点として、「かくありうる」という実存者の投げかけをもっている、と言うのである。

ハイデガーが論考する「意味論」の方法上の特質は「意味」の本質を実存論的観点から捉えようとする点にあるが、「意味」の本質をこのような仕方で取り出すことは「観念論」であり「主観主義」にほかならないという批判も強固にあることを竹田は自覚している。

これに対して、認識方法というものは認識すべき対象の本質に規定されるべきものだから、探求すべき対象の存在本質の適切な理解なしには、われわれは「方法」という概念する確定することができないであろう、と反論する。

われわれ の 言語 的 常識 は、「 意味」 の 存在を何かの言語記号に内属する存在として、あるいは言語記号の差異のシステムから生じる存在としてイメージしようとする傾向がある。

しかし、この「表象」こそ「意味」の客観主義的顛倒の結果である。また、この「意味」の存在表象的顛倒が、意味の「主観主義」対「客観主義」という素朴な対立構図の原因でもある。

重要なのは、「意味」の本質が記号論的、形式論的定義においては必然的なものとするということ、またそのことの解明は実存論的な「意味」本質論によってしか果たされないということである。すなわち、「意味」論においては、その対象存在に本性によって現象学的、実存論的な方法上の優位が存在するのである。

「意味」の本質論は、実存論的あるいはその展開としての欲望論的カテゴリーによってはじめて可能な対象領域であり、論理形式論的術語ではそれを記述できない。

竹田青嗣. 言語的思考へ 脱構築と現象学 (講談社学術文庫) (p.109). 講談社. Kindle 版.


伝統的な言語理論も場合は、話し手(A)と聞き手(B)の関係は、話し言葉(L)を通じて、Aの気持ちが正しくBに伝わるかどうかが問題となる。伝言ゲームでは、最後の聞き手に渡るまでには、意味が真逆となることが度々あるが、最初の聞き手ですでに、ズレていることがある。つまり、Aの表現とBの認識が厳密に一致することは困難という問題が発生します。AがBの内部に入って確かめることができないからです。

言語(L)と受語(B)の間には伝達と了解という関係がある。ここでも「空が青い」というごく普通の言葉でも、気持ちはブルーだという内面のことを言っているのか、今は青いがもすぐ灰色になるという意味かというように、多義化して、厳密な一義的な理解ができないという問題が発生する。

そこで、竹田は現象学的方法で考察するわけである。

ここで重要なのは「認識=表現関係」(発語主体⇒言語)と、「伝達=了解関係」(言語⇒受語主体)のふたつを「信憑関係」(=確信成立の構造)として捉えることである、と言う。

先ほどに「空が青い」は一義的には理解できないとしたが、実際の会話の場面では、そんなことはなくて、相手の「意」の理解についてなんらかの「確信」が成立している。

現実的シチュエーションの 中 で われわれ が この「 言葉」 を 聞く と すれ ば、 その 多義 性 に 迷う よう な こと は まず ない。 友人 と 野外 を散策していて、彼が感懐をこめて「空は青い」という場合、理科に教師が教室で「空は青いなぜか?」と言う場合、知人が旅行先のギリシャから絵はがきで、で、「 毎日 が 快適 だ。 今日 も 空 は 青い」 と 書い て よこす よう な 場合、この言表の「意味」が決定不可能などということはありえない。

竹田青嗣. 言語的思考へ 脱構築と現象学 (講談社学術文庫) (p.162). 講談社. Kindle 版.

パロール(会話)の場合、個々の意味確信(=妥当)を成立させるのは、相手、場所、時、お互いの関係的な来歴、発話の前後の具体的な状況、相手の顔色状態などの「状況コンテクスト」があるからだ、と言える。
もちろん、相手の「意」がよく理解できないままに会話が進むこともあるが、たいていは、成立させている。

パロールではなく、エクリチュール(書き言葉)の場合は、「状況コンテクスト」はないが、「テクスト内コンテクスト」が確信成立の主な条件となる。前後の文脈、あるいはテクスト間(哲学や文学的書物の間の)文脈というものがあると言う。

しかし、この「確信」は本質的に信憑であり、絶対的な確定に至るということではない。

どんなに自明に思える相手の言葉も、その意味を絶対的に確かめることは不可能ではあるが、つねにそのつど内的な自然な確信としてこれを受取っており、しかしこの確信は、じつはそうではなかったという訂正可能性【呟き:どこかで聞いた言葉だ。東の新刊本の宣伝になっている。】を原理的にもっている。

これは、意味の理解の問題は「意」と「理解」の「一致」という構図ではなく、あくまで了解確信が自然なものとして成立するための条件の解明、ということが問題となる。

フッサールが言わんとしていることは次のようなことである。

われわれ が「 ある 表現」 を それを理解しつつ行うとき、そのつど、その行為はわれわれにとって「意味」というものを生じる起点となっている。そして重要なのは、なぜそうなのかについてわれわれは決していうことができないということ、つまりそこが意味というものの分析可能性の底板になっている、ということだ。意味とは「直接的に」与えられており「記述的に最後のものである」とは、そういうことである。

竹田青嗣. 言語的思考へ 脱構築と現象学 (講談社学術文庫) (p.120). 講談社. Kindle 版.


フロイトが、深層心理の分析は、これをたどっていくと必ずそれ以上たどれない分析不可能性の地点にぶつかると言った認識原理として正しいように、フッサールのこの言い方も正しい。およそ認識問題についてこれを追いつめると必ず分析の限界となる地点が現われるということは、原理的である、と言う。


現象学的には「意味」とは、われわれの表現行為において生じるひとつの関係の意識そのものである。
言語の「意味」は、はじめの直観や思念と「表現」との、在る関係の意識として生起する。そして、この「関係の意識」の核をなすのは、直観的な「思念」と「表現」との間にある「妥当=一致」がある、あるいはないという「信憑」の意識なのである。

「ことば」とは欲望ー関心相関的な世界の分節であると竹田は結論づける。

欲望ー関心的とは、たとえば目の前に「水」があったとしたら、喉が渇いていれば、喉をうるおすために、この「水」を飲みたいという欲望が生じます。このとき初めて水が「意味」を持って認識されるというようなことである。

だから、こうして欲望ー関心相関的な世界を分節(切取る)のである。これは、一定程度の他者もこうした欲望ー関心相関的な同一性を共有しているならば、言葉によるコミュニケーションは可能となる。

ところで人間のまわりに存在する事物は、さまざまな一般的=客観的規定をもっている。だが、それだけではなく、潜在的な諸性質をももっている。たとえば、「机」であれば、普通は勉強するためのものであるが、天井にある蛍光灯の球を変えたいときは、この机の上に乗るというように、その時々に人間の要求、欲望に応じて規定することができる。これは、そもそも事物の諸性質というものは自体存在ではなく、欲望=関心の相関者だからである。

言語も、一般的意味(一般言語表象)で規定されるときと、この一般的意味を媒介して言葉の意味を投げかける(企投的意味)がある。この一般的意味と企投的意味の二つの構造で考えると、言語の本質が分かると竹田は述べている。

言語は多義性があるのですが、日本語のばあいは、主語がないだけに、さらにあいまいな言語だと言われている。それだけに、会話などでは、相手の言わんとしていることを裏読みしたり、阿吽の呼吸で理解したりという技に優れている点で欧米人たちの言語感覚より一歩先に進んでいる、と苫野一徳氏はVoicyで述べていた。

思っていたよりも長くなったので、分割することも考えましたが、そうなると「意味」があいまいとなってしまうので、このまま投稿することにしました。

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