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信長の家臣団の城郭 part3♪

こんにちは♪ hm384352です!
今回は信長の次に天下を握った豊臣秀吉がまだ信長の家臣の時に築城した城についてです!

そのお城は現在の滋賀県長浜市にある城郭です。
安土城や坂本城とともに琵琶湖水運ネットワークを司った城でもありました。

その城とは長浜城のことです。
それでは早速城の歴史を一緒に見ていきましょう!

天正元年(1573年)、浅井長政らを攻めた功績により信長から近江三郡を与えられた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、かつて浅井氏三代の居城であった小谷城に入ります。しかし、小谷城は琵琶湖から少し距離があったことや京までの交通の便が悪かったことがありました。

よって天正2年(1574年)、秀吉はより交通の便が良い「今浜」(現滋賀県長浜市)に築城を開始します。
築城当時の様子が書かれた古文書には、築城の際に竹生島から材木を運び、領地の住民を集めたこと等が記されています。また長浜城内から水門を通って琵琶湖へと船が出せるようになっていたことだけは記録に残されています。
ついに天正3年(1575年)、城は完成しこの時秀吉は地名を「今浜」から「長浜」に改名しました。

後に城主は秀吉の後、柴田勝豊、山内一豊と代わり、慶長11年(1606年)からは徳川側の内藤信成・信正が配置され、9年後の元和元年(1615年)に廃城となります。
それに伴い、長浜城で使用された資材の大半が彦根城等に流用されており、長浜城自体も一部が琵琶湖に水没したため現在在りし日の長浜城を見ることは出来ません。

それでは発掘調査はどうなっているのでしょうか?

秀吉が築城した長浜城はこれまでに何百回にも及ぶ発掘調査が行われていきました。これまでの調査で、石垣、掘立柱建物、礎石建物跡、船着場と推測される石組遺構等が検出されています。

これらの遺構等から築城時の長浜城は琵琶湖に面した位置に本丸が設置され、この本丸の南北にはそれぞれ堀で囲まれた曲輪を配置し主郭部としていたと推測されています。
しかし発掘が部分的であるため、全体の縄張りや詳細な部分に関しては解明されていません。

現在分かっている範囲においての長浜城の遺構をいくつか紹介していきます。

まずは大手門です。長浜城の大手門自体は、同じ長浜市内にある大通寺というお寺の現存している台所門として移築されたと言われております。また長浜城の搦手門も知善院表門として現存しています。

次に櫓です。先にお話しした通り、長浜城の資材は彦根城に転用されています。現在彦根城にある天秤櫓や三重の隅櫓が長浜城から転用されたと伝えられています。

3つ目は本丸です。本丸・二の丸跡であった豊公園の発掘で石垣の根石や石列が出土したことから天守の南側にあったであろう本丸には一部であるが、天守台付近から出土した石材で石組が組まれていたことが判明しています。
このために琵琶湖に面している豊公園付近がかつて城域の中心であったと推測されています。

最後に遺構ではありませんが天守についてです。現在建っている天守は犬山城や伏見城をモデルにした模擬天守で、長浜城歴史博物館として運営されています。
秀吉が建てたとされる天守は書かれている史料が存在しないため当時の姿をしのぶことは出来ません。

しかし、信長の安土城、明智光秀の坂本城、津田信澄の大溝城とともに琵琶湖の水上水運を牛耳る拠点の一つであった長浜城でもあるし、安土城・坂本城は共に絢爛豪華な天守が建立されていたこともあるので、長浜城もある程度豪華な天守が建立されていたと想像出来るのではないでしょうか。。。


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