催眠の核にあるもの

催眠の核にあるものは、掛け手からの無茶振り(相反する二つの指示を同時に出されること)に対して、逃げにくい関係性や動機づけなどにより、掛かり手がそれに反応しようとして、その結果、解離という心理的な状態が引き起こされるものです。

・広がる催眠
・催眠の核
・しようとしないのにしてしまう
・思考実験
・無茶振り
・演技
・解離

広がる催眠

催眠は様々な分野で使われます。それは心理、ビジネス、恋愛、コミュニケーション、自己啓発など幅広いジャンルで使われています。催眠というワードで検索すれば、あやしい情報商材から心理学的論文までがヒットするとこで、そのことが分かるでしょう。

様々な文脈で語られる催眠は、催眠で起きる現象から拡張されたものであるように思えます。そして、その度合いによってはこの世の全てが催眠になってしまうのではないかと思えるような主張も見かけます。

催眠を考える視点はたくさんあります。催眠の暗示に注目することもできますし、掛かり手の心理状態に注目することもできるでしょう。また、相互作用としてのコミュニケーションに注目することもできます。

実際に催眠は、直接的権威的なものから間接的許容的なものに拡張されてきた経緯があります。そして、間接的な催眠ほど、その他の説得技術や心理テクニックとの違いが分からなくなるかもしれません。

しかし、催眠を広く様々なものに当てはまるよう拡張してしまうことは、催眠としてのアイデンティティを失うことになります。例えば、催眠をコミュニケーションから分析することはできても、催眠はコミュニケーションとイコールではありません。

催眠を拡張した考えとしての多く見るのが、掛け手の意図とおり掛かり手が反応とすることが催眠であるというものです。具体的には、心理療法は催眠である、教育は催眠である、説得は催眠であるというような考えです。この考えの延長には、周囲に同調することや脅されて行動することも含まれるでしょう。そう考えると、人の行為のほとんどが催眠になってしまいます。

意識の変性に関係するものは催眠とする考えもあります。瞑想や感動体験やセックスなどでの意識の変性は催眠と同じであるというような考えです。通勤電車での意識を閉じたり、仕事に集中したり、食事を味わったりなどにも意識の変性はありますから、これもほとんどのことが催眠になってしまいます。

催眠という現象を拡張して考えることは、悪いことばかりではありません。例えば、催眠はコミュニケーションであると考えることから、催眠で起きていることが理解できる部分はあります。

しかし、あらゆることを催眠とすると、催眠が催眠である本質を見失います。コミュニケーションが催眠であるとするとして、催眠以外のもっとよく説明できる考えもあるかもしれません

催眠の核

私は、催眠の核になるものに興味があります。本質に興味があると言ってもいいかもしれません。催眠が拡張されていった流れに反していますが、そこについていつも考えていました。

私なりに考えた催眠の核は、

「催眠とは無茶振りである」

というものです。もっと言えば、無茶振りに反応してもらえようにする術が催眠の核なんだと考えました。

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