見出し画像

【福岡歴史白書】明治維新の策源地 太宰府

更なる歴史的な魅力がある場所

「江戸を見たくば宰府におじゃれ、今に宰府は江戸になる」

激動の幕末。当時の福岡ではこんな俗謡が流行っていたそうだ。

「宰府」とは太宰府のこと。太宰府天満宮は福岡でも有数の観光名所としても有名だ。「令和」の語源にもなった万葉集の歌とも縁がある場所でもある。

そんな歴史的な魅力がある太宰府が「明治維新の策源地(※1)」とまで呼ばれていたのは何故だろう?

それは五卿という存在が鍵となっているだ。

※1 策源地… 前線の作戦部隊に対して、補給、整備、回収、交通、衛生、建設などの兵站(へいたん)支援を行なう後方基地。

勤皇の象徴的存在

五卿とは、三條実美、三條西季知、東久世通禧、壬生基修、四條隆謌5人の公家のことを指す。

この5人は尊王攘夷派であり長州藩の過激派と共に朝廷を攘夷へと傾けていった。勢いを増し倒幕にまで踏み出そうとしていた長州藩に危機感を抱いた公武合体派の会津藩と薩摩藩は、考明天皇が攘夷は望んでも討幕を望んでいなかったことから、天皇の信頼を得て長州藩をはじめとする尊王攘夷派を京都から一掃することに成功した。

一連の長州藩追放劇を八月十八日の政変と呼び、これによって五卿も京都から長州へと都落ちをしたのだ。文久三年(1863年)のことである。当時は5人に加えもう2人いたことから俗に七卿落ちとも呼ばれる。1人は死亡。1人は離脱した為、五卿となった。

なぜ五卿は太宰府へやってきたのか

長州征伐の手は緩むことはなかった。福岡の各藩にも長州征伐の命令が来る。

しかし、諸外国が日本に押し寄せてきている一大事に内戦をしている場合ではない。その回避を考えていた月形洗蔵は「薩長和解」を提言。

長州征伐軍の幹部であった西郷隆盛も内戦回避の必要性は感じており、長州にいる五卿を他の場所へと移せば軍を解散できるかもしれないと考えいていた。

薩長の間を筑前勤皇党の面々は駆け回り、高杉晋作と西郷隆盛の会談の場を設けたりもした。長州は勤皇の象徴たる五卿を手放すことに抵抗したが、長州という1つの藩の矜持と一国の危機を大局で見た時に優先すべきことは何かと月形洗蔵や早川勇が熱弁し、五卿の太宰府への転移が決まり、長州征伐も一旦は落ち着いた。

太宰府に訪れた維新のヒーローたち

五卿を迎えた太宰府には多くの志士が訪れた。

西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、野村望東尼、小田村素太郎(楫取素彦)、そしてあの坂本龍馬も太宰府に足を踏み入れている。

五卿が滞在したのは3年ほどだが、ここまでの維新のヒーローたちが集まり情報を交換した場所であることが太宰府は「明治維新の策源地」と呼ばれる所以だ。

しかし、その事を知る人はあまりに少なく、実際に太宰府から明治維新への大きな出来事がなかったのだろう。

ここまで維新の魁となっていた筑前勤皇党の面々が後に一斉に処刑されたことに因果関係はないとは言えないだろう。


【参考文献】

『維新の魁 筑前勤王党』 示車右甫著、海鳥社刊、2020年

『維新秘話・福岡 志士たちが駆けた道』 浦辺登著、花乱社、2020年

『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』 アクロス福岡文化誌編纂委員会、2015年

『地図でスッと頭に入る幕末・維新』 木村幸比古監修、2020年


YouTubeチャンネルの登録、どうぞよろしくお願いいたします!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?