言葉は苦手
言葉を使うことがとても苦手だ。
例えば読むことも元来おそらく得意ではない。小学校だった頃、両親の前で本を朗読するという宿題があった。片仮名の一文字一文字につまづき、脂汗をにじませながら読んでいた記憶がある。まともに文字を読めるようになったのは当時買ってもらったニンテンドーのテレビゲームのおかげだろう。早くゲームを進めたいが故にとても頑張って文字を読んでいた気がする。
今人並みに字は読めてはいると思うのだが、言葉のあらわすことがなんなのか把握する能力は未だに十分とは言えない。小説を読んでいても、学術書を読んでいても全体を通して書き手の一番伝えたいであろうことはめったにわからない。だからごくごく具体的な言葉によく執着する。要は「38ページの四行目の括弧の中の言葉が印象深い」ということになる。ただどういう前後関係があって、どういう意味がその言葉にあるのか、そういうことのパラフレーズがてんで苦手である。あとになって全く同じ箇所を他の人が取り上げて分析してるあたり、着眼点は間違ってはないのだろうが、そうした言葉への印象や違和感を改めて自分の言葉に直せない。
所謂「言外の意味」というものについて理解できた試しもほとんどない。それは時として対人関係でも問題になる。例えば仕事場で「お前大丈夫か?」と聞かれたとき、自分はただ質問された内容に対して「大丈夫です。」と答えるのだけど、聞いてきた相手にとっては、自分の行動手順が間違っていたり、なにか普通でないことをしていたときにそう問いかけるらしい。そんなことを直接言われてようやくその意味を理解する、ということは日常茶飯事だ。相手がその言葉を通じて要して示したいことが僕にはわからない。
最近主に読んでいるものを挙げると、SNS、論文、日本のネットコラムやネット漫画、ドイツの新聞、という感じ。SNS、ネットコラムや漫画にかんしては(なぜ自分が読んでいるのかわからなくなるという点は別にして)おおよそ不自由はない。わかりやすい言葉で書かれているしそれについての感想を求められることもない。ドイツ語の新聞に関しては自分の知らない語彙も多い、つまり語学上の問題もあるのだが、論文に関してはときとして日本語ドイツ語に関係なく、言葉の意味は理解しているはずなのに何が言いたいのかわからないことがある。主張そのものが僕の目から見ても支離滅裂なものも稀にあるけれど、大抵はおかしくないはずなのに大意をつかめないことが多い。だから例えば「論者の言いたいことを自分の言葉で一分で説明すること」と言われるともうお手上げ。もう書いてあることを選び出して10分かけてそのままいうか、押し黙るかのどちらか。「自分の言葉」をつくりだすことが非常に苦手だ。
これまで書いてきたことに鑑みると、僕が文章を書き出すことがどれだけ苦手か、そしてそれに際してストレスを抱えるか、想像がつくだろう。今はドイツのとある大学で学生生活を送るにあたって必要な手続きを行っている最中だ。なんというか、手続きアレルギーとでもいえばいいのか、それから逃避しようとするばかりだ。そういえば“Verfahrensallergie”という複合語をタカくんに提案してみたらしっかりと伝わった。
一応は学問に身を置こうとする身だから、当然どういうことを研究したいのか、研究をどう進めるかをスケジュールにしたり、明文化しなければいけない。この明文化ということを非常に恐れている。いくら書いても書いても、いや書けば書くほど、自身何を書きたいのかわからなくなってくる。いつの間にか勝手に自分が書くために書いているといったような状況jになっているのに気がついて、いざ見直してみると大抵は不必要な情報を並び立てていて、必要なところを選び取ってみると文章は3分の1ほどの長さの、しかも穴だらけのものができあがってしまう。「ドイツ語ができるようになれば書けるようになるだろう」と思っていたのは本当に甘い考えで、いざ大学に必要な最低限レベルのドイツ語能力を得たところで、本当の問題がどの言語で文章を書くかではなくて、どういう論理で、どういう言葉で文章を作り上げるかというところにあるのだから、取り組むべきところはもっと他にあった。いざ考えてみるとこの問題は卒業論文を書いていたときから明確に浮かび上がっていたはずで、その時点で取り組んでおくべきものだったはずなのに、悲しいかな今ようやく自分がしてきたことに気づいている。
他人の言葉も自分の言葉も、僕がどれだけないがしろにしてきたのかこの一ヶ月の間に痛感している。それでも結局のところ今自分のやりたいことを諦めるつもりはない。問題があるとしたらそれに取り組むしかない。そもそも言葉無しには生きてこなかったろうし、言葉なしに考える人間は生まれてこない。多分言葉はムカつく親父みたいなもので、自分はそれにずっと反抗していたり向き合ってこなかっただけかもしれない。そして不思議なことに、おおよそ一年半前にもある宿屋の訪問帳に言葉と思考について、僕は同じようなことを書いていたらしい。言葉は苦手だけど、結局今の僕には言葉しかないのかもしれない。
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