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『オフィサー・アンド・スパイ』当時の新聞イラストでドレフュス事件を振り返る

映画トレーラー / 基本情報

原題は『D』、フランスでのタイトルは『J'accuse』(私は告発する)であり、事件当時エミール・ゾラが新聞に掲載した意見書と同様のタイトル。

第76回ヴェネチア国際映画祭でプレミア上映され、審査員大賞を受賞している。

監督 : ロマン・ポランスキー
脚本 : ロバート・ハリス / ロマン・ポランスキー
製作 : アラン・ゴールドマン

ピカール : ジャン・デュジャルダン
ドレフュス : ルイ・ガレル
ポーリーヌ・モニエ : エマニュエル・セニエ
アンリ : グレゴリー・ガドゥボワ
ゴンス将軍:エルヴィ・ピエール
メルシエ将軍:ウラディミール・ヨルダノフ
ベルティヨン : マチュー・アマルリック
サンデール大佐:エリック・リュフ
ラボリ : メルヴィル・プポー 
ジャン=バプティスト・ビヨ将軍 : ヴィンセント・グラス
予算:30億程度

映画原作本

Robert Harris 『An Officer and a Spy』

この、2013年の歴史小説が原作。映画では主にピカールと軍内部に内容を限定する形で語られている。

この辺りについては、『ドレフュス事件: 真実と伝説』の23章 ; ロマン・ポランスキーはどのようにドレフュス事件を表現したのか? にも詳しく記載されている。


鑑賞直後の感想


ドレフュス事件概要

1870-71 普仏戦争

フランスはプロイセン(ドイツ)に敗北した。
フランクフルト講和条約締結により、戦争は正式に終結したが、多額の賠償金や、アルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)地方の割譲などを巡り、フランスと新生ドイツの間に遺恨を残した。フランスはこれまでになく帝国主義の道を進む事になる。

事件前のアルフレッド・ドレフュス

1859年10月9日 アルフレッド・ドルフュスはフランス東部のアルザスに産まれる。ドレフュス10歳の時、普仏戦争によってアルザスがドイツに併合されたため一家はパリに移住する。この事が彼を軍に進ませるきっかけとなる。その後、一家は事業に成功。財を成す。
ドレフュス家は所謂同化ユダヤ人で、フランス人と同様のライフスタイルを送っていた。ドルフュスはパリの名門工科大学を卒業し、1893年には若干34歳で陸軍司令部付き士官に任命される(その地位では唯一のユダヤ人だった)。同年参謀になるための試験を受けるが、「ユダヤ人は望まれていない」と陪審員に成績を低めに改竄され不合格となる。

1894年12月

スキャンダルは、アルフレッド・ドレフュス大尉が反逆罪で有罪判決を受けたときに始まる。ドレフュスは35歳、アルザス出身のユダヤ人でフランス陸軍大尉だった。12/22 彼は、フランス軍の秘密をパリのドイツ大使館に伝えたとして軍法会議で有罪判決を受け、終身刑を宣告された。

1985年1月

1/5 大勢の軍関係者が見守る中、勲章を剥ぎ取られ軍籍を剥奪される。

その後、
4/13 フランス領ギニアのデビルズ島(悪魔島)に投獄され、そこで5年近く過ごす事になる。

当時、フランス軍や政界、世間はユダヤ人であるドレフュスに好意的でなかった。しかし、ドレフュス一家、特に弟のマチューは彼の無実を信じ続け、ジャーナリストのベルナール・ラザールと共にその証明に努めた。

1896年3月

1895年7月より防諜部長に任命されたジョルジュ・ピカール中佐は、ドイツ大使館の掃除婦から一通の封緘電報を入手したことをきっかけにフェルディナン・ワルサン・エステラジー少佐がスパイではないかと疑い、捜査していた。

そのうち、ピカールはエステラジーの筆跡がドレフュスによるものとされた密通の手紙と似ている事に気付く。その後筆跡鑑定などで証拠を固めで、上司であるゴンス将軍、ボワデッフル将軍に報告するも、「一度下した判決は変えられない。」と一蹴される。ここから、軍による隠蔽が始まり、同年11月ピカールは左遷される。
一方10月にはピカール中佐と同じ情報局のアンリ少佐がゴンス将軍の命によりドレフュスを犯人とする証拠を捏造。軍関係者への説明に活用した。

1897年6月

様々な場所へ転々と配置換えされた後、パリに戻ったピカールは友人である弁護士ルブロワに相談。一方で軍部に監視されていたピカールは外務大臣夫人とのスキャンダルを暴かれる。
7月
ドレフュスの家族は元老院議長オーギュスト・シェレール・ケストナーに連絡し、ドレフュスに対する証拠の希薄さを指摘した。3ヵ月後、シェレール=ケストナーはドレフュスが無実であることを確信し、新聞記者で元代議院議員のジョルジュ・クレマンソーを説得したことを報告する。同月、マチュー・ドレフュスは陸軍省にエステラジーに関する苦情を申し立てた。

ルブロワとマチューの働きもあって、エステラージの裁判が開かれる。

1898年1月

この事件は2つの出来事によって全国的に有名になった。
エステラージが無罪となり(その後口髭を剃ってフランスから逃亡)、
エミール・ゾラがドレフュス派の宣言として「私は告発する!」と題する公開状を『オーロール』紙に掲載したことだ。
これで、多くの知識人がドレフュスの大義に賛同するようになった。この事件をめぐってフランスは分裂し、世紀末に至るまで激しい論争が繰り広げられた。反ユダヤ主義者の暴動は20以上の都市で発生し、アルジェでは数人の死者が出た。
軍部はこの事件を隠蔽しようとし、ゾラを名誉毀損で訴え、ゾラは禁錮一年の有罪となる。
ピカールはこの裁判中行われたアンリの虚偽発言によって名誉を気付付けられたし決闘を行っている。結果、アンリの腕に2カ所の怪我を負わせピカールが勝利。
8月
先の裁判中、証拠とされた書類(1896年にアンリが偽造したもの)の調査が進み、遂にアンリは偽造した事を自白するが、独房で自殺してしまう。

1899年

その後、調査が進み、最高裁判所によって最初の有罪判決が取り消された。レンヌで新たな軍法会議が開かれ、ドレフュスは再び有罪判決を受けるが、情状酌量の余地があるとして判決は10年の重労働。
※この裁判中、ドレフィスの弁護士ラボリは道で撃たれ、命を落とす。
9月
ドレフュスはエミール・ルベ大統領による恩赦を受けた。

1902年

エミール・ゾラ、自宅で死亡

1906年

最高裁判所の判決により、ドレフュスの無実が公式に証明された。
ドレフュスは少佐の階級で軍に復職し、第一次世界大戦に参加し、1935年に死去した。

その後の影響

この事件は多くの影響を与え、フランス国民生活のあらゆる側面に影響を与えた。
それは第三共和制の正当性を証明するものとみなされ建国神話となった、しかし一方では軍におけるナショナリズムの復活に繋がり、フランスのカトリシズムの改革とカトリックの共和制への統合を遅らせることになった。フランスでインテリという言葉が生まれたのは、この事件の最中であった。
この事件は、多くの反ユダヤ主義的なデモを引き起こし、中欧と西欧のユダヤ人社会の感情にも影響を与えた。その結果、シオニズムの創始者の一人であるテオドール・ヘルツルは、ユダヤ人はヨーロッパを離れて自分たちの国をつくらなければならない、と考えるようになり後のエルサレム建国運動に繋がった。

1915 - 1960

ドレフュス事件のあらゆる映像作品は、公共の秩序を乱しかねないとして禁止された。(フランス)
『ゾラの生涯』(1937)はカンヌの選抜作品に選ばれたが、フランス政府の要望によって除外されている。なので、これまでドレフュス事件についてはフランスではなく、主にアメリカ映画で描かれてきた。

当時の新聞イラストで振り返るドレフュス事件

1890年から1920年にかけてフランスで発行された『Le Petit Journal』
この新聞は、事件中アルフレッド・ドレフュスを厳しく糾弾していた。(1889年頃、世論が変わっていくとともに新聞の調子も変わったが)

今回、『オフィサー・アンド・スパイ』でもこのイラストから参照された構図をいくつか見る事が出来る。

また、ドレフュス事件中は、新聞が物凄く売れ、小説やその他の本の売上げに大打撃を与えたという。その一端には、当時の新聞界が拡大路線を取り、固定読者を得るために事実をただ羅列するのではなく、連載小説の形式で-劇的な物語として-号から号へ話を続けていった事も影響していた。

再現度が凄い!
再現度が凄い!!
凄い!!!
パンフレットのデザインも当時の新聞オマージュになっている

1894年12月23日付Le Petit Journal紙:パリ軍法会議でのドレフュス大尉の発言
1895年1月13日付Le Petit Journal紙 : 軍籍剥奪式で剣を折られるドレフュス
問題となった手紙
1895年1月20日付Le Petit Journal紙:牢獄の中のアルフレッド・ドレフュス
1896年9月27日付Le Petit Journal紙:悪魔島にいるドレフュス
1897年12月19日付Le Petit Journal紙:ドゥ・ペリュー将軍とエステラジー少佐
1898年1月2日付のLe Petit Journal紙:ドレフュス事件 (戦争評議会)
1898年1月号:ピカール中佐の逮捕
エステルハージ少佐、戦争会議に出席 - 判決文の朗読
1898年  無罪判決を受けたエステルハージ少佐に拍手喝采
1898年2月20日付のLe Petit Journal紙:ゾラ事件
ドレフュス事件に関するゾラの公開状が掲載された『オーロール』紙
エミール・ゾラの名誉毀損裁判
エミール・ゾラの出頭
1898年2月27日付:ゾラ裁判
公聴会での重大事件:アンリ大佐とピカール中佐
1898年3月20日付Le Petit Journal紙:アンリ-ピカールの決闘
アンリ・ド・グルー《法廷を去るゾラ》1898
反ユダヤ暴動
1898年7月17日付Le Petit Journal紙 : エステルハジ-ピカール事件
1898年8月7日付Le Petit Journal紙:ゾラ事件。判断の意味
1899年7月16日付 ードレフィス,弁護士と合う
1899年8月20日付 ドレフュス、戦争評議会に召喚される
1899年08月27日付 ラボリ襲撃事件


折れた剣を持つドレフュスの像
地下鉄ノートルダム・デ・シャン駅の出口にあるラスパイユ大通り

2分されたフランス 風刺画

上のコマには(特に!ドレフュス事件については議論しないように!)
下のコマには(議論してしまったようだ…)

カラン・ダッシュによる有名な風刺画
とある食事会で、ドレフュス事件の話題を切り出したが最後、つかみ合いの喧嘩になってしまう。それ程までに当時のフランスは2分されていた。

反ドレフュス派のキャンペーン風刺画

醜悪博物館

画家, ヴィクトル・ルヌプヴによる一連の風刺画『醜悪博物館』において、ドレフュス擁護者達はおぞましい姿で描かれ、新聞を飾った。

Musée des horreurs No.6 『裏切者!』
No35 『怪物園』

Psst…! 紙

先に挙げた、とある食事シーンの風刺画の作者でもあるカラン・ダッシュが1898年2月にフォランと共に創刊した週刊誌『PSST...!』
毎週時事を描く風刺画が掲載され、ドレフュス事件はその主要な題材だった。

アレゴリー ドレフュス事件


ドレフュスの送られた悪魔島

ドレフュスが送られた悪魔島は脱獄不可能と言われ、脱獄に成功したパピヨンは映画にもなっている。

1973年の映画『パピヨン』

ドレフュス事件博物館

フランス  2021年10月にオープン
ゾラの家に博物館が併設されている。
ドレフュス事件の各資料、裁判資料、個人的な品々、写真などが展示されており、HPでその一端を見る事が出来る。

ロレイン・ベイトナー コレクション

ニューヨーク市立大学の名誉教授であった、ロレイン・ベイトナー氏の集めた資料。こちらもウェブで閲覧可能

ジョルジュ・メリエスの描く、ドレフュス事件

1899年の映画
構成は以下の通り
1 - ドレフュス軍法会議-ドレフュスの逮捕
2 - 悪魔島
3 - ドレフュス、鉄格子に入れられる
4 - アンリ大佐の自殺
5 - キブロンへのドレフュスの上陸
6 - レンヌでドレフュス夫人に会う
7  - メイトル・ラボリの生命に対する試み
8 - リセでの記者たちの戦い
9 - レンヌでの軍法会議

ドレフュス事件も描かれる『ゾラの生涯』

1937年ウィリアム・ディターレによる映画。

ケン・ラッセルによるドレフュス事件のテレビ映画

リチャード・ドレイファス、オリバー・リード、ピーター・ファースらが出演したイギリスのテレビドラマ映画です。

おまけ ポランスキー インタビュー

公開プロモーションの一環として行われた小説家パスカル・ブリュックナーとのインタビューで、ポランスキーは、欠陥のある司法制度の犠牲者としての個人的な経験を通じて、ドレフュス事件に容易に共感できることを示唆し、波紋を呼んだ。「私に嫌がらせをする人のほとんどは、私のことを知らないし、この事件についても何も知らない。(中略)私は、この映画で描かれている迫害の仕組みの多くを知っていることを認めざるを得ないし、それが私を明らかに刺激したのだ。」

おまけ 本作に対する反応

ポランスキーのスキャンダルを受け
フランスのマルレーヌ・スキアッパ平等相は、この映画を見ないと言い、エマニュエル・マクロン大統領の広報担当者シベス・ンディアイもこの意見に賛同。フランク ライスター文化相は、「ポランスキーの過去の行為を今後考慮する必要がある。作品は、それがどんなに素晴らしいものであっても、その作者の起こりうる過ちを免責するものではありません。才能は軽減要因にはならないし、天才は免罪符にはならない。」と述べた。
エドゥアール・フィリップ首相は、「フランスの歴史における重要な出来事に触れているため、子供たちと映画を見に行く」と様々な反応があるが、
フランスではポランスキー監督にとってここ数年で最も好調なオープニング週末を迎え、公開1週目には、興行チャートでトップに立ちフランスでは現在までに150万枚のチケットが売れ、未だ公開中。

2020年1月、本作がセザール賞12部門にノミネートされると、女性団体から、フランスの映画アカデミーは「逃亡中の虐待者、強姦魔」を称賛しているとの声が上がった。結局、ロマン・ポランスキーだけでなく、『An Officer and a Spy』の他のスタッフも第45回セザール賞の授賞式には出席しなかった。ポランスキーに代わって賞を受け取る者もいなかった。ポランスキー監督のセザール賞(監督賞)について、観客の評判は芳しくなく、主演女優賞にノミネートされたアデル・ヘーネルをはじめ、何人かは嫌気がさしたのか会場を出て行ってしまった。

ロマン・ポランスキーの第76回ヴェネツィア国際映画祭への出席は、2018年5月に映画芸術科学アカデミーから除名されて以来、主要な映画イベントへの初出席となった。映画祭期間中、審査員長のルクレシア・マーテルはこう述べている。「私は、この人と芸術を切り離すことはしません。作品の重要な側面は、男の中に現れると思うのです。[このような規模の犯罪を犯し、断罪され、被害者がその補償に満足するというのは、私には判断が難しい...。ある行為を行い、それを裁かれた人たちに対して、どのようなアプローチをとるのが正しいのか、それを定義するのは難しいことです。このような問題は、現代における議論の一部であると思います。」マーテルはまた、この映画を支援するための晩餐会に出席しないことを表明した。それを受けポランスキー監督のプロデューサーは、この映画を映画祭のラインナップから引き上げると発言。マーテルはその後、自分のコメントを明らかにし、次のように述べた。「今日の記者会見後のいくつかの報道によると、私の言葉は深く誤解されているようです。私は作品と作家を切り離すことはしませんし、ポランスキー監督のこれまでの作品に多くの人間性を認めてきましたので、この作品がコンペティションに出品されることに反対しているわけではありません。偏見もありませんし、もちろん他のコンペティション作品と同じように観ます。もし、偏見を持っていたら、審査委員長を辞めていたでしょう。」 ヴェネチアの映画祭ディレクター、アルベルト・バルベラは、以前、この作品の出品を擁護し、次のように述べていた。「私たちは芸術作品を見るためにここにいるのであって、その背後にいる人物を判断するためにいるのではありません。ポランスキーやL.A.カウンティーの件ではなく、映画の質について話し合えればと思います 。」

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