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足りない部分を補うために、言葉は不完全なんでしょう?



嬉しいことがあった。
小春日和みたいなことが。


今にも雪が降り出しそうな日曜。ずっと来てみたかったカフェの片隅で丸まっている。セットで頼んだパウンドケーキが温められていて、このお店を一瞬で好きになった。


焼きたてではなさそうだし、さっきトースターの「チン」が聞こえたから、きっとそういうことだ。温かいものが胃に落ちると、何にも代えがたい安心感に変わる。こんな思いがけない優しさは、心が弱っているときだったらうっかり泣いてしまうかもしれない、なんて思いながらもぐもぐ頬張る。身体との境界線が曖昧なお菓子はやさしい。こういうこぼれ落ちた心配りをいつでも拾えるような人でいたい。


書き出しの嬉しいことというのは、仕事でのこと。異動していった先輩から引き継いだ仕事があって、そのことでよい知らせが届いた。けっして私の手柄ではなくて、昨年度のうちに先輩が蒔いてくれた種が花開いたような出来事があったのだ。



今は別部署にいる先輩に報告したいと思ったのだけれど、こんなことで電話したら迷惑かなとか、今の部署はすごく忙しいかもとか、上手く報告できなかったらどうしようとか、理由をつけては持ち上げかけた受話器を置いた。何より、その先輩にあまり好かれている自信がなかった。仕事で割と激しく意見がぶつかった思い出もあり、彼女にとって可愛い後輩ではない自覚があったから。

でも、ここで何度か綴ってきている通り言葉は生ものだ。自分の気持ちや相手の状況はどんどん変わってしまう。タイミングを逃すと、後悔だけを胸を残して言葉は宙に浮いてしまう。言葉を尽くして相手に伝えることは、私が私に約束したことじゃないか。そう思い直し、密かにデスクで姿勢を正した。


心臓が跳ねながら聞くコール音は長かった。なぜ別部署というのは、こんなにも別世界に感じるのだろう。しかしすんなり先輩に取り継がれる。約1年振りの会話。

「お疲れさまー!お久しぶり。元気にしてる?」


心配が杞憂だったと確信するほどからっとした声で、心が凪いだ。時事ネタをひと言ふた言交わした後、おずおずと本題を差し出す。よい知らせが届いて嬉しかったこと、そういう方向に向けてくれた先輩にお礼を言いたかったこと。拙いながらも言葉を繋ぎ合わせた。先輩はまるで昨日の出来事のように、鮮明にその件のいきさつを語ってくれた。


「嬉しい報告をありがとう」


付随する話をいくつもしてくれて、こちらも温かい言葉をたくさん受け取った。私は私との約束を無事果たすことができたから、二重で嬉しかった。伝えることは、むしろ自分に寄り添うことなのかもしれない。


言葉を尽くそうとすればするほど、言葉は万能でないことに気付く。気持ちをひと言で片付けられるほど、世の中はシンプルに出来ていないことにも。そういう意味では言葉は不完全かもしれない。


でも、だからこそ、伝えることに一生懸命でいられる。相手のために言葉を選んだり、組み合わせたり、あえて余白を挟んでみたり、時には行動を添えてみたり。そうやって不完全な言葉を補う行動にこそ、想いの本質は現れる。そう思いたい。


例えば「好き」よりもっと強い言葉が生まれて広辞苑に載ったとして。それはそれで素敵なことだけれど、しばらくしたら、きっと人はさらに上の言葉を求めてしまうと思う。


だから、今ある言葉を尽くせたらいい。
気持ちとの隙間を埋める行動がとれたらいい。


伝わっているか不安なくらいが、かえって丁度いいのかもしれない。

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