見出し画像

Dear mine.

ひさしぶりに短い物語を書きました。明るくはないお話ですが、夜の景色を綺麗に描ければ良いなという目的の元に作りました。

画像1


 新月。星ばかりがきらきらと瞬く月のない夜。深い藍色の冷たく冴え渡った大気に、星々は柔らかく揺らぎ、天球で砕けた氷の欠片のように澄んだ光を放っている。
 僕のぐるりを見渡せば、辺りの景色は一面、漆黒の影絵のようなシルエットで縁取られている。腰の高さまで生い茂る草木、枝葉を空へと伸ばす木立。まるで天にある何かを必死に掴もうとする巨大で得体の知れない生き物が、大地から触手を生やしているようにも見えた。
 シングルバーナにかけたコッヘルの中の湯がことことと音を立てている。小さな泡が弾けて生まれた暖かな蒸気が、無精ひげの生えた顎をなでるように触れた。辺りは虫の足音が聞き分けられそうなくらい、しんと静まり返っている。バーナーのガスの炎が照らす周辺以外は殆ど暗闇で、例えば熊に背後から忍び寄られようものなら、きっと僕など、一溜まりもない。
 日が落ちる直前まで険しい尾根を歩いていた。人一人が注意深く譲り合ってもすれ違うことがままならないくらい細い稜線の両側は、切り立った崖だった。滑落すれば命すら危うい。
 だとしても。幾日経っても僕が地上に戻らなくとも、誰も僕を捜さなくていい。僕は自分の責任で死ぬ。山に入る時にはいつだってそう覚悟していた。
 天球を仰ぎ見れば、星の瞬きが聞こえてくるかと錯覚する程の、恐ろしいくらい静かに輝く暗い夜が広がっている。おうし座のそばにある、寄り添う星々が昴。あの柄杓の形をした星座の先にぽつりと光るのが北極星。いま少し、あなたと僕の話を、この誰もいない夜空に向けて囁こうと思う。僕が向かえなくて、あなたが辿り着きたかった場所の話を、今日限りの夜とともに、明け方の光に淡く溶ける夢のように、語ろう。

「祖父は海の向こうで消息を絶ったんだ」
 僕がグラスを傾けると、ウイスキーの澄んだ琥珀色に溶かされた氷がカラリと冷たく鳴った。あなたは無言で相づちを打つ。大抵の場合、あなたは物も言わずに僕の話を聞いていた。
 祖父がどういう人物であったか、祖母も両親も、生涯何も語らなかった。異国の地へ赴いた由が仕事なのか或いはただの旅行なのかさえ判然としないのだけれど、僕の父の有り様を思うに、祖父は癇癪玉のような男であったのかも知れなかった。
 ある夜、父は台所から持ち出したよく研がれた一振りの包丁を僕に向けた。なんと口走っていただろうか、お前の性根を叩き直してやるだとか、掛かってこいだとか、そういう類の挑発的な言葉を、僕へ向かって吐いていたように思う。
「新しい氷を持ってきますね」
 あなたの声にハッと気付くと、今し方、蓋を開けたばかりと思っていたウイスキーの瓶の中身が半分以上減っていた。あなたが空になったガラスの器に柔らかな手を伸ばすのを眺めながら、僕は言った。
「ねえ、着物を着てよ」
「着物、ですか?」
「好きなんだ」
 すると、あなたはにこりと笑顔をこぼして、
「わたしも好きですよ」
と返した。
 翌日になると早速あなたはその身を着物で包んで、台所に立っていた。見立てて買ってやろうと思っていたものだから、僕は水仕事をするあなたのそばに立って、わざと少々不服そうに言った。
「持っていたのかい、着物」
「ええ。和箪笥の奥から引っ張り出してきました。昔、母に仕立てて貰ったんです。いつか結婚するときに持って行きなさいと」
 そこまで言って、あなたは口を噤んだ。僕もそれ以上は何も言えなくて黙っていると、
「すみません」
 あなたはか細い声で呟いて、小さく俯いた。
 ある夜、あなたは台所で日の光のような月明かりに晒されながらさめざめと泣いていた。なんと呟いていただろうか、この家にふたりきりでは淋しすぎやしませんかとか、そういう類の感傷的な言葉を、僕に向けて、わかって欲しそうに投げかけていた気がする。
 毎日、あなたは廊下の床を磨き、玄関先を掃いた。夏になれば打ち水をして、冬になれば雪を歩道の隅に寄せて。僕は壊れた水道管を直したり、きしんだ床板を打ち直した。夏の日差しを避けるひさしを窓辺にこさえて、冬のすきま風を塞ぐ板を打ちつけて。僕らはそのようにして、つがっていた。
 ある晩、あなたは二匹の雪兎を作った。椿の葉の耳を生やし、ヒイラギの赤い実の目をした雪兎は、玄関先で寄り添うように並んでいたけれど、翌日の昼頃には日差しに跡形もなく溶けていた。それをじっと悔しそうに見つめるあなたの、ふっくらとした下唇を噛み締めていたあなたの、着物の襟から覗くうなじの白さが、目に焼き付いて今も頭から離れない。
 僕は確かにあなたを愛していた。だからふたりきりでいたかった。
 あなたも多分僕を愛していた。だからふたりでいるのは淋しいと言った。
 僕らは夜毎に肌を重ねて、一つであったかもしれない。けれど、心は重ねられていただろうか。
 あなたを抱きしめていなければ僕は、僕の中にいる何か得体の知れない怪物に追いつかれてしまうのかも知れない。あなたは黙々と僕に付き従っていた。そうして時折、どこか疲れた笑顔で微笑みかけた。あなたはいつも何かを怖がっていた。
 別れを?それとも、僕を?

 東の空に薄布を幾つも重ねたような雲がたなびいていた。どうやら夜の終わる頃合いらしい。凍えた天球に暁の星が一際輝く。このまま、ひととき閃く星のように夜の中へ消えたところで、嘆く人ももういないけれど、少し眠ったらまた歩き出すとしよう。
 僕はあなたの幸せを祈ったりはしない。祈らなくたって、きっとあなたは自分で手に入れるのだ。今頃は、あなたの望みを共に手の中に収めてくれる人と出会って、笑顔をこぼしているに違いない。
 そろそろ夜明けが近いので、僕の話もこの辺で。


お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。