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自分なりに考えてみた発達障害のこと


*こんにちは羊です。
普段から好き勝手に思ったことを書いていますが、今回は発達障害について現時点での自分なりの見解です。目下、勉強中ですが詰め込みすぎてもいけないので、吐き出させてください。あくまで私見です。長い長い独り言です。不快な思いや心配が募る方もいると思います。そんな時はどうかスルーしてください。



わたしは何かと検索しては考えているのが好きなのだ。
悩んでいる時などは相談をするより、自分でいろいろと調べて、考えて、納得してそしてまた悩むという感じだ。
そうしていることをどこか楽しんでいる。
つまり、勉強しているのが好きなのだと思う。
もう少し、人に頼って、相談してみてもいいのかもしれない。
とも思うけれど、やっぱりいろいろ調べている自分のことは嫌いではない。
そんな性格なので、息子が生まれてからは子育てやら発達に興味が行き、検索魔と化している。これをわたしは研究と呼んでいる。

現在、息子は5歳なので、子供についての研究も5年になる。
子育て論というのはいろいろとある。
それに関する情報もいろいろとある。
極端な話をしてしまえば、その子に合った方法で育てられればうまくいくだけの話だったりする。
そして、この子育ては実は子育てを終えてみないと結果が分からない。
じゃぁ、どこまでが?という疑問も出てくるけれど、これに関してはまだ、考えていない。
明日、終わるという話ではないので、気にしてもしょうがない。
とりあえずのわたしの子育ての目標は、
息子がこの社会で自立して生きていけること。
一人でもいいので、困ったときにサポートしてくれるような人がわたし以外に彼のそばにいて、彼もまた、誰かをサポートできるようなそんな人として生きていける。
ということだ。
この自分の軸を改めて認識して、きちんと整理しておきたい。
そう思ったのです。

息子は極度の偏食です。
幼稚園入園をきっかけに食べられないことに本人がショックを受けたようで、食べられていたものも食べられなくなり、体調も崩したので病院に相談に行きました。
「自閉スペクトラム症の傾向が強い」というのが小児科の先生の意見です。
これは自閉スペクトラム症という診断ではなく、あくまで先生の見立てだそうです。
それからおよそ3年。半年に一回ほど、先生の所へ赴き、相談となっているのですが、先日、帰り際に「今の感じだと、性格の範疇として考えてもいいと思うので小学校で大きな問題がなければ通院は終了にしましょうか」と言われました。

通院がなくなる見通しが立つのは良いことなのですが、わたしの検索魔は加速しています。
小学校入学前までになるべく、発達障害に関することや子供の発達について、さらにはそれに伴い、カウンセリングやコーチングなどの知識を増やしていきたいと思っています。
現在通っている療育も入学までです。

通院がなくなる=治った。というわけではなく、社会生活を行う上で、対処できていて、特性が落ち着いている。ということだと思います。
医学的な判断になるのでしょう。
ということは彼の困ったに気づいて対応できるのは彼自身と周りにいる人(特に親)になっていくので、せめてできることとして、学んでいきたいと思い、勉強を始めました。
そこである程度、自分の中で考えがまとまった気がするのでここにまとめておきたいと思います。

そもそも発達障害とは?
文部科学省のホームページによると以下のような定義があります。

発達障害とは、発達障害者支援法において「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義されています。

つまり、現時点では発達障害は脳機能の障害であると考えられています。
では脳機能の障害とは?ですがこれは現時点で、研究中という感じではないでしょうか。
通常の発達、通常の脳の働きとは異なる仕様になっている。
という理解でいいのではないかと思います。
今分かっていることが、10年後、20年後には当てはまらないこともあるでしょうし、やはりそうだったかと認められる場合もあるでしょう。
なので、振り回されない程度に、認識しておくのがいいと思います。

そんなわけなので、発達障害って実はまだ、はっきりと分かってはいないのだと思います。
実際、支援の場でも、脳の発達に障害があり、問題が起きている考えている場合とあくまで生まれつきの脳の特性であると考えらている場合があると思います。
このような観点から、発達障害は治るとか治らないとかの議論も生まれていると思うのですが、ここを議論するより、発達障害だと発達(成長)できないという大きな誤解が世の中にあることを何とかしなければならないのではないかと思います。
さらには発達障害だと心(非認知能力)が育たないと考えている人が多いような気がします。
これは大きな誤解です。
発達、成長の速度や程度はバラバラですが、子供はしっかりと育っています。
他の子と比べるとできないが目立ったりしますが、一年前と比べると、別人じゃないかというくらいできることが増えたりしています。
子供はいつか大人になります。
自分と周りの大人を見比べても様々です。育った環境も違います。
けれど皆、いつかは大人と呼ばれます。
それぞれ、自分の心があって、考えがあって、生き方がある。
大切なのは、その子と向き合い、その子の心の声を聴いて寄り添うことなのではないかと思います。
わたしは息子にはなれません。息子もわたしにはなれません。
どんなことでも最終的には息子が選んで息子の道を進んでいく。
これが自立なんじゃないかと思います。

便利な世の中ですので、発達障害とネット検索するとチェックリストや特徴など実に様々なものにアクセスでき身近に感じられますが、それに当てはまるからと言って発達障害というわけでもなく、誰にでも少なからずなにかしら当てはまるよねってことも沢山あります。
また、この発達障害だと言われている子たちの特性は共通項はあるにせよ実に様々です。
その現れ方も、程度もいろいろで、診断のための根拠もいろいろとあり、最終的には専門医の経験と知見によるところが大きいと思います。

と、学べば学ぶほど考えることがつきません。
医学的なことや科学的なことなど、論文を読んだところで理解するのも難しいく、根拠というよりは、個人的な勝手な解釈ですが、脳の機能障害というよりは原始的な脳なのではないかと思うときもあります。
脳の働きの中には発達の段階であえて機能しなくなるものもあります。
それはおそらく進化や生存の過程で獲得しているものではあるのでしょうが生物の多様性の手段としてあえてそれが残っている人たちがいる。
そんな気もしています。
今、世を騒がしているあのウイルスだって、この短期間に随分と変異が見つかっています。
それくらい、種が生き残るためには多様性が必要なのだと思うとこの特性もなんら珍しいものではないと思えてきます。
障害と名がつくと何か一生、困難を抱えて苦しむようなネガティブなイメージがついて回りますが、成長の過程で通常進むであろうと考えられる発達の流れとは違うルートで成長をしていく人たちではないかと思います。
さらに、本人がその特性で困ってるかどうかだと思います。
どんな人だって一人では生きられません。
もし、世の中が今と違うルールで成り立っていてら、この発達障害の定義もがらりと変わるでしょう。
けれど世の中を機能させるには、やはり多数派の普通が常識になってきます。
ざっくりと空気が読めない人たちと言われることもありますが、彼らなりに空気を読んでいると思います。
というよりはおそらくわたしが見ていたり感じていたりする世界とは違う世界が広がっているのだと思います。
極端な話、もしかしたら赤い色が青い色に見えているかもしれない。
それに気づいているから、慎重に確かめているのかもしれない。
何か違うという本能的な衝動が彼らを動かしているのかもしれない。
誰だって違和感のある世界に生きるのは不安です。
その違和感の程度が世間との距離感なのだと思います。
窓越しに外が見えて出入り自由なのか、厚い壁で覆われているのかで特性の程度が決まってくるのではないかと思います。

まだまだではありますが、発達障害に関してのサポート体制はあります。
支援の専門家もいらっしゃいます。
こちらから求めていけば、情報を得て、支援を受けられる状態にありますが、その支援を受けられる環境や条件はハードルが高いような気がします。

合理的な配慮を求めなければ配慮されません。
そのためには発達障害を定義して配慮が必要だという境界線を引かなければいけません。
ではこの境界線のあたりを行き来している子達はどうなるの?
特性が性格だとなったら、配慮されず、できないことを努力が足りないと言われ、困ってることが甘えだと言われる可能性が大きくなります。
また、逆に性格が特性となれば支援の枠組みに入り、何かしらの配慮がされる場合がありますが、それが時として過剰になってしまいます。
それならはじめから誰もが参加できる環境にすればいいのではないかと思います。
教育の中に療育を取り入れる。
みんなができて当たり前があるならできないことがあって当たり前。
できるように工夫してみようと言う環境がいいのではないかと思います。

わたし自身、自称HSP です。
あがり症でおまけにストレスにとても弱い体質です。
人混みの中に長時間いられません。
何かと過敏で、縫い目のある下着は着れない。
よくお腹を壊す。
アレルギー体質だったり、人の怒鳴り声で震えます。
そんなわけで、人とコミュニケーションをとることが苦手です。
そんなことも含めて、世の中的には個性的な人として認知されていると思います。
そんなわたしが子育ての悩みを友人に相談すると「あなたの子だからね、あなたが育ててるからね、それでいいんだよ」と返ってきます。
こうやってわたしを肯定してくれる友人がいることに感謝しています。
この肯定がなければ、きっと子育てに挫折していたかもしれません。

発達障害という言葉が身近な、何かしらの特性がある子を育てている方はとにかく孤独です。
何度となく甘やかしているだの育て方が悪いだの言われます。
わたしは狂ってると言われたこともあります。
息子がパニックになったり、泣くとわたしが怒られるたりと理不尽なことが多々、起こります。
そしていつの間にか、こうなったのはわたしのせいと責めなくていい自分を責めてしまいます。
猛烈に高かった自己肯定感も今では深海を漂っている程度にな感じだと思います。些細なことで、あぁ、わたしはダメなの。ダメなのよと落ちてしまいます。
そんな時は底に穴を掘って、底辺を下げてみます。そうすれば、どん底ではないですからね。おまけに地球は丸いので、掘っていけばいつかは地上に出るので気づけば上がっています。
根っこが楽天家なのでわたしは低いなりに楽しめています。
けれどそんな想いをするのは自分だけでいいです。

息子と付き合って5年が過ぎ気づいたことがあります。
接している側の心が安定していると、子供が落ち着いているような気がします。
きっと落ち着いているっていうのはわたしに余裕があるから、無言の圧をかけてないのだと思います。
子育てに限らず、自分以外の他者に感心を向け、何かできるときは自分に何かしらの余裕があるときだと思います。
息子は小さな変化も微妙に察知してしまうので、わたしがイライラをなんとかかくして接していてもすぐ気づきます。
声が違うらしいです。
彼からすればわたしのイライラで自分のペースが乱れるわけです。
息子からしたら、たまったもんじゃないです。
このイライラの元を突き詰めていくと、きっかけは息子であっても、最終的には自分自身の中の問題だったりします。
そう、乱れたわたしのホルモンバランス。
整えるのは息子ではなくわたしの心。

毎日、優しく穏やかに接することができれば最高だけれど、そこまでわたしも人間ができてはいません。
だから、自分の気持ちを伝える。
息子の気持ちを聴く。
いい気分は〇、もちろんダメな気分は〇。
そうやってゆっくりコミュニケーションをとって、彼の世界にお邪魔できたらいいと思います。

いわいる定型発達の子に対しても、この軸は変わらないと思います。

今、目の前にいる子供をよく見て、感じる。
この世界を選んで生まれてきたのだから、生きていく力は必ずその子の中にあると思います。

なんだか精神論的になってしまいましたが
発達障害という言葉で揺れている人たち、子育てに頭を抱えて苦しんでいる人たちに、そしてわたし自身に
「大丈夫ですよ」
とわたしは伝えたいのだと思います。

子育てにかかわるすべての人が、そして今を一生懸命生きている子供たちにHAPPYが届きますように。

羊でした。


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