知ってもらうということ
幼稚園で陶芸体験をしてきた。
幼稚園バスに乗って、体験できる場所に行って、陶芸の体験をしてみる。
体験学習みたいなもの。
いつもとは違う場所で
いつもとは違う体験。
新しいことをする。
初めてのことをする。
ワクワク、ドキドキ、楽しみなこと。
そうなのだ。
自分にとって未知なことは楽しいのだ。
そんな前提が世の中にはある。
けれど、
未知なことに対して不安を強く感じてしまう人たちもいる。
未知なこと、知らないことに対して想像する力が弱いから見通しが立たず不安になる。だから、いつも同じがいい。強いこだわりになるとも言われている。
そんな専門的なことではなく、
我が子と共に暮らしていたら何となくわかってきた。
この子は知らないことに対しての不安が強い。おまけに敏感。
いろいろと体験してもらいたく、赤ちゃんの頃は子育て支援センターのイベントなど、今日はここ、明日はここと、いろいろと回っていた。
けれど、どこでも馴染めなかった。
愛嬌のある、元気な子だったので、面白い子だね。個性的!なんて言葉で励ましてはもらっていたけれど、なかなか活動に参加できないことが多くあり、そのうち、行くのを辞めて、散歩の日々。
毎日同じルートをぐるぐる。
別の道に行こうものなら全力で阻止される。
「赤ちゃんって前の日と同じように過ごしたいものよ。それが安心するんだって」
友人のこの言葉を頼りに暮らしていた。
そのうち、どこかへ出掛けるとき、なにかをするとき、まだ、話せもしないのに、予定をひたすらに説明して、いく場所を教えていた。
少しでも知っている情報がある方がわたし自身も安心だったので、いつしかそうすることが当たり前になっていた。
そういえば、好奇心が旺盛で1歩、踏み出すごとに世界が新しく広がる
けれど未知の世界、知らないことに対しては不安。
相反する2つの感情の中でよくパニックになっては泣いていたものだ。
懐かしい。
色んなところに、好きなように行ける人達が羨ましくもあった。
初めてのことばかりの幼稚園にはすんなり通ってくれるのかものすごく気がかりだった。
「1年、この年少さんの1年間を過ごせば、きっと流れがわかるから年々、楽になりますよ」
年少さんの担任の先生の言葉。
そうなのだ。
彼は小さいなりに少しづつ、経験を重ね、記憶を積み上げることで、流れを感じて生活できるようになってきたのだ。
遠足の行き先で、行けそうなら事前に行ってみたり、
何かするときは先生に流れをきいて確認してみたり。
とにかくこれから起こるであろうことをひとつひとつ伝えていった。
不思議と幼稚園では大きなパニックを起こすことなく、みんなと一緒にやれている。
本番に強いのかやるときはやれるタイプなのか。
本心はわからないけれど、
自分の中の不安や心配を乗り越えて
本当に頑張っていると思う。
何かをする当日よりも前日ぐらいにきっとピークなるであろう不安。
1人、ソワソワしたり、落ち着かなかったり、今日はどうしたの?って言うことが多いので、明日が心配?と訊くと大きくうなずく。そしてボソッと「やっぱり嫌だ」と話してくれる。
じゃぁ、先生に伝えるかときくと「話さなくていい。行くから大丈夫」と気持ちを整理しきれていないのがよくわかる。
ただ、この辺の不安定な気持ちはなんとなくわかるような気がする。
なんとなく落ち着かないんだよね。
特性があると特性と言う名でくくりたがるけれど、性格の延長なのだろうぐらいがちょうどいいのかもしれない。とうっすらと思っている。
初めてのことに対して不安になる。その事自体は別に特別なことじゃないし、普通に誰だって思うことなんだろう。
けれど、まわりの子より、そこが気になってしまう。それで困ったら困らないようなことを考える。それだけのことなのかもしれない。
息子の場合は少し、話をきいてあげたり、もう一度、ゆっくり流れを確認してみると落ち着くこともある。
だからまだ難しいかもしれないけれど、行く、行かない、やる、やらないの判断は病気ではない限り本人に委ねている。自分で考えて決める練習だ。
そして
その気持ちを先生に伝えるかどうかも決めてもらっている。
今回は先生に
初めて行く場所。
初めてすること。
この2つで何か心配でソワソワしている。
それを伝えてほしいということになっった。
先生に伝えたところで何かしてもらえるわけではない。
それでも彼は伝えることを撰んだのだ。
「初めていくところだけど、お皿作りの練習はいっぱいしてるから、大丈夫」そんな声かけをしてもらい、大きく頷いて出発していった。
もはや、こういったやり取りは、日常化されていて苦でもなんでもないのだけれど、もしかしたら一手間かけているのかもしれない。
過保護というのか、きっと、息子より心配性の母親として先生方には認識されているのかもしれない。
年中、年長とクラスが始まる前には息子についての手紙を書き、早々に面談をしてもらい、何かあるごとに、ああだ、こうだと、息子のことを伝えてきた。
家と幼稚園では別人のようなので、先生が知る息子とわたしが知る息子とのギャップもあるのだろうけれど、自分のことを伝えることもままならないわたしが、息子のことを何とか知ってもらうべく、奔走しているのはいささか滑稽でもあると分かってはいるのだけれど
わたしは知ってもらいたい。
彼は何か特別な支援を必要とするわけではなく
少し過敏とか少し落ち着かないとか、
一昔前なら厳しくし矯正されてしまうような現状があるだけで、分かりやすく言えば手のかかる子なのだ。
だから、具体的に何かすれば、解決するものでもない気がする。
本人の成長と納得がなければいけない問題な気もする。
それでも、知ってもらうことで無駄に傷つくことはないと思うし、少しでもいてもいい場所があるに越したことはない。何でもかんでも、違うからやらなくてもいいではなく、とりあえずやってみよう。そんな感じの場所で経験をして、悩んで考えてほしい。そう、思っている。
いつもは自分の弱いところを先生に言いたがらない息子。
けれど、今回は心配な気持ちだと言うことを伝える選択をして自分の気持ちを落ち着かせたのだろう。
どうしてだろう。
わたしなりに考えてみた。
きっと気持ちを知ってもらいたかったんだろう。
何かをしてもらいたいわけでも、助けてもらいたいわけでもなく、
今の自分の状態を知ってもらって、その上で接してもらいたかったんだろう。
もしかして、何かをしてもらうことは孤独なのかもしれない。
分かったふりして手を出すのは、本人からすれば迷惑なのかもしれない。
ただ知ってもらいたい。それだけなのかもしれない。
できるんだよ。やれるんだよ。だから、見てて。
言葉にするとこんな感じなのだろうか?
正解はわからない。
心配なんだ、不安なんだと言う気持ち。それがあるんだよと言うことを知ってもらいたかっただけなんだろうし、むしろ、それだけで良かったのだと思う。
お迎えに行ったら担任の先生が「落ち着いてできましたよ」と教えてくれました。
本人も楽しかったと元気いっぱい。
いろいろと陶芸のお話をしていたらエンジンが切れたように眠ってしまいました。
帰宅してからはべったり離れなくなったのでやっぱり、不安だったのかと実感。
そして、この状態も無事に、陶芸体験が終わってホッとしたゆるみなのだと受け入れいるわたし。
思いの外、長い文章になってしまった。
自分のことを知るのも難しいのに
自分以外の誰かを知るなんて、
時間がかかるし
手間がかかる
でも、サプライズが苦手な人にサプライズパーティーをしたって喜んではもらえない。
その人が喜んでくれることを探さなければいけない。
サプライズパーティーを強行したところで楽しいのは主催者側だけだ。
サプライズが苦手。それを知っていればきっと温かいパーティーは開けるはず。
病名とか症状とか、そういったことでもなくこれが問題とかこれができないとかそういったことでもなく、
そのままそこにある自分を知ってもらうこと。
そして見守ってもらえること。
見通しが立たず不安でいることと、それができないことは違う。
できなかったとしても、他とは違ってしまっていても、やってみたいことってあるんだと思う。
それぞれが同じ場所でそれぞれの想いで生きていける。
そんな世界になればきっと楽しい未来を描けるのかもしれない。
まずは知ってもらうこと。知ってみること。
それから始めるのがいいのかもしれない。
ありがとうございます。 サポートで頂いたお金は apple pencilを購入してイラストの勉強に励みたいです。