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かくも女はシタタカなるものか

 日傘を差しても影に入らない脚を日差しがじりじりと焦がしていく。いつもならさほど気にならない、重なり合うセミの鳴き声がやたらと耳に障る。
 ストッキング穿いてるから日焼けは大丈夫かな。UV加工されてたっけ。一度日に焼けると元の肌色に戻るまで時間を要する由香にとって真夏の日差しは大敵だ。そんなことを考えられるくらいにはまだ余裕があるのかな、と深く息を吐き、ひとまず涼める場所に落ち着こうと手頃なカフェを探す。


 社用メールアドレスに届いたメッセージが発端だった。
「雅則の妻です。全て知っています。お話がしたいので、今週の土曜日、うちに来てください」
 雅則は、由香がここ1年ほど付き合っている7歳年上の男だ。由香がアシスタントについているプロジェクトに関わる他会社の担当者が雅則だった。よくある話で、何度か食事に誘われたのちに何となく流れで付き合うようになった。由香の記憶が正しければ、上司とともに初めて顔を合わせた時、雅則は結婚指輪をしていなかったはずだ。

 え、妻? 私、不倫してたってこと? いや、でも既婚者なんて聞いてないし……。知らなければ慰謝料請求の対象にはならないって昔テレビで見たことあるし。え、私が悪い、の?
 混乱しながらも自分に非がない根拠を探す抜け目のなさを覗かせつつ、住所まで添えられたメールをコピーして雅則のLINEに転送する。
「ねぇ、こんなのが会社のメールに来たんだけど。どういうこと?」
 本当は「だましてたの?」「結婚してたこと、最初から黙ってたの?」と言いたいことはたくさんあったが、何とか飲み込んで必要最小限にとどめた。がなり立てるよりも、シンプルなメッセージのほうがより深刻に捉えてもらいやすいと考えたからだ。
 メッセージはなかなか既読にならなかった。由香と同様雅則も業務時間中だから、メッセージが来たことに気付いてもすぐにはスマホを見られないかもしれない。

 交際開始から1年を過ぎても、二人は毎日LINEのやり取りをしていた。単刀直入な追及のメッセージの直前にも、雅則が最近ハマり始めた漫画の話をしていたのだから、通知画面を見なければ、LINEの内容はその話の続きだと思うだろう。すぐに返事が来ないのは仕方ない。だが、だからといって目の前の仕事に身を入れることなど不可能だった。正直なところ、このまま早退したいし、よくこの場で吐かなかったものだと自分を褒めてもいいくらいだ。
 喉元までこみ上げてくるものを何とか抑え込み、今日の仕事の予定を確認する。よかった、明後日までは急を要するものはない。由香はぐっと目を閉じ、息を少し止めて一気に口から吐き出すと、気だるげに席を立った。

 社内の休憩スペースでスポーツドリンクの封を開けているところでLINEが一通だけ入った。
「ごめん」
 すぐには既読にせず画面を見つめていると、「最初に言わなきゃいけなかったけど、言えなくて……」と次のメッセージが入ってくる。そこでやっとLINEを開く。
「俺、結婚してるんだ。子供ももいる」
「由香は何も悪くない」
「でも、俺、由香が好きになっちゃって、由香も俺を嫌ってないのが分かって、それで、そのまま」
「本当にごめん」
 矢継ぎ早に届くメッセージに「そっか」とだけ返信し、スポーツドリンクを一口飲む。何を言ったらいいのだろう。嘘吐き? 最低? 罵倒しても何も解決しない。ああ、家に行かなきゃいけないんだっけ……。
「あの住所、雅くんの家で合ってるの?」
 送ったあとで、送られたメッセージと全く噛み合っていないことに気付いたが、目先の課題と疑問を解決しなければ焦ってしまう性分は仕方がないと自分を納得させる。
「うん、合ってる」
「でも待って」
「ちゃんと妻と話すから」
「由香ともちゃんと会って話したい」
 いや、土曜日、行かなきゃいけないのかそうじゃないのかわかんないじゃん落ち付かないよ……。少し腹立たしい気持ちを抱えつつ、とはいえどうしようもないのだろうと自分に言い聞かせ、「わかった」と送り、また大きく息を吐き出した。

 土曜日、身体が泳ぐゆとりがあるシルエットの白いサマーニットと、くすんだ淡いブルーのひざ下プリーツスカートに身を包んだ由香は、雅則とその妻が住むマンションを訪れていた。手に提げた紙袋には、昨晩百貨店で購入した有名高級フルーツ店のゼリーが入っている。

「ごめん、妻が手が付けられない状態で」
「やっぱり由香に家に来てほしい」
「子供は妻の親に預けるから」
 金曜未明に雅則からメッセージが入り、結局そうなるんだ、と半ば呆れながらも仕事終わりに百貨店に駆け込み、ちゃらちゃらしている女には見えなそうな服を身繕い、季節に合った安っぽくない手土産を買った由香は、こういう時にまで発揮される自分の「いい子ちゃん」ぶりが心底嫌になっていた。私には非はないはずだけど、そりゃ奥さんはショックだろうし、私に気持ちをぶつけたい気持ちもわからないことはないもんねぇ……。

 三度深呼吸をしてインターホンを押し、名を告げると「どうぞ」と少し高めの女性の声が聞こえ、エントランスの自動ドアが開いた。覚悟は決めてきたはずだけれど動悸は治まらない。だが、意を決して部屋の呼び鈴を押す。出てきたのは口をきゅっと結び、八の字眉になっている雅則だった。ああ、駄目だこりゃ、援護は期待できそうにないと妙に腹が据わった由香は、低めの声で「お邪魔します」と中に入り、目線を落としながら無言で雅則に包みを渡した。ここで手土産を渡すのはスマートではないだろうが、妻に直接渡すのも気が引け、より火に油を注ぐような気もしたのだ。
 リビングに通されると、ウォルナットの四角いダイニングテーブルに小柄な女性が座っていた。うわぁ、私と真逆の小動物系か……。うっかり心の中で毒突いてしまったのを悟られないように由香は深く頭を下げた。

先に口を開いたのは雅則の妻だった。
「主人と付き合ってたんですか?」
「はい」
「結婚して妻がいるって、知ってたんですか?」
「いいえ。奥様がいらしたことは存じ上げませんでした。結婚なさっていると知っていたら付き合いません。今すぐ証明するのは難しいので信じていただけないかもしれませんが、既婚者だとは知らなかったのは事実です。もちろん、雅則さんとは二度とお会いしません」
 目線を外してしまいそうになるのを堪え、どもりそうになるのを堪えて最後まで言い切った。用意していた言葉のように聞こえてしまうのはもう仕方がない、誠意をアピールするしかないとテーブルの下で握る指に力が入る。「二度とお会いしません」と言ったところで妻の横に座る雅則の肩が強張ったような気がするが、これは由香が決めていたことだった。

 妻も由香の目を見つめていたが、ぎゅっと瞼を伏せた。自然と由香も視線を落とすと、テーブルの上に置かれたお菓子が目に入る。白く浅いシンプルな器にはミニサイズのポテトチップスがくるりと円を描いていた。きっと子供のおやつだったのであろうそれの味が何とはなしに口の中で再現される。何考えてるんだろうこんな時に、と自分を律しつつも、やっぱり私、冷たい人間なのかもしれないな、とうっすら自嘲した。


 地図アプリで見つけた、駅の反対側のカフェでアイスカフェラテをストローでかき混ぜ、「これからどうなるんだろう」と由香は思わず口に出して言った。店内はコーヒーのほろ苦い香りで満ちている。
 あのあと妻は由香に雅則と別れることを念押しし、「今日のところはもういいです。お帰りください」と苦悶の表情を隠さずに言い放った。雅則はついに何ひとつ言葉を発さなかった。

 でも……、と由香は自問する。私は雅則が既婚者かどうか本人に聞いたことはなかったしわざわざ確認するようなこともしなかった。結婚してるのに口説いてくるとはそもそも思ってなかったんだからどうしようもないけど。何となくでも「結婚してるかも」って思ったことがなかったって言い切れる? それって私には非はないって言い切れる?
 こんなことを考えても答えは出ないと思っていても、自分を責める自分の声は止まらない。このままではいけない、ひとりでは危ないと思ってLINEで女友達のグループを開くも、何と話していいか言葉が浮かんでこなかった。それでも、ひとりではいたくない。

「あ……」
 ふと思いつき、いわゆる“出会い系”のアプリをインストールする。こんな代物を使ったことはなかったが、どうせ結果的にとはいえ不倫していたような女だ、身体目的の出会いだっていい、もうなんだっていいと自棄になろうとしているようだった。
 アプリに促されるままにアカウントネーム、年齢、自己紹介文と写真を登録していく。写真は、以前友人と撮ったものを選び、友人と顔全体が映らないように加工した。あとは気に入った男とそうでない男をより分けていくだけだった。ハートのマークを押すか、右にスワイプするだけで相手に好意を示せるらしい。相手も好意を持っていればメッセージのやり取りができるようになるというわけだ。由香は大胆にも「さみしいから今すぐ会いたい」と紹介文に書き加えた。
 氷がとけて薄まってしまったアイスカフェラテをゆっくりと吸い込みながら、「ノリ」という男のメッセージに目をとめる。どうやら男は隣駅の近くにいるようだった。どこまで本当かはわからないが、写真で見る限り、由香の好みの濃過ぎないが目鼻立ちがすっきり整った顔立ちで、背が高く、身体つきはがっしりしている。「隣駅前のカフェにいます。白いニット、ブルーのスカート」とだけメッセージを返した。

「ねぇ、コンビニ寄っていこうよ。お腹空いちゃうかも」
 ホテル街に近いコンビニの前で由香は男の腕を引いた。二人はコンビニに入るとそれぞれカゴを持ち、好きに品を入れていく。由香はビールと、あのミニサイズのポテトチップスをカゴに放り込んだ。
「なんでポテチ? それでお腹いっぱいになる?」コンビニを出てから興味深げに男が由香に尋ねる。
「なんか急に食べたくなっちゃった。たまに食べたくならない? これ」
「なるなる。ビールにも合うよね」
「あ、飲めるタイプだね? 何買ったの?」
「俺もビール買ったよ」
「一緒だね」
 再び由香は男の腕を取って歩き始め、体格の良い男の肩にもたれかかった。

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