月のように眠る、缶コーヒー分の小さな怒り
私はよく、太陽がゆっくりと昇る頃に眠り、それがきちんと弧を描いて沈もうという頃に目覚めます。昼夜逆転というやつですね。
悪いとは分かっているんだけど、夜の圧倒的な静寂とその甘美さが身体に染み付いてしまってるからなかなか。
だからそれをすごく良いように、「月のように眠る」などと日記に書いたりします。「また徹夜してしまった」とか「日中を無駄にした」って書くよりも「今日も月のように眠ってしまった」と書いた方がなんだか素敵な気持ちになれるから。そうやって自分を甘やかします。
でもよくよく考えたら、昼間にも月って見えますよね。
私はあれが結構好きで。
なんだか本当はいてはいけないのに、誰にもバレないように息を潜めてそこに浮かんでいるような感じが。
小さい頃には昼間に月が見えるといちいち「あっ月だ!」って誰かに報告していたものです。今でも、白い三日月が水色の空にほっそりと申し訳なさそうに浮かんでいるのを見つけると、ちょっと嬉しくなります。
ほっそ〜い三日月なんかは、切った爪が床に落ちてるのを見つけたように気分になります(友だちにそれを言ったら「爪にしか見えなくなるからやめて」と怒られましたが、私はすごく良い意味で言ったんだけどな)
それくらい、わりに気に入ってたんですよね。
昼間なのに月が浮かんでいるという光景が。
でも最近思うことがあります。
幼い頃私たちは(少なくとも私は)昼間には太陽が昇って、夜になると月が昇って・・・とまるでそれらがバトンタッチしているかのように動いていると教わった気がするなと。
絵本ではドーム型の空を太陽と月が入れ替わるように描かれていたし、太陽と月は対照的な象徴として語られた。
太陽は月のアンチテーゼ、月は太陽のアンチテーゼ・・・
例えば、太陽が地平線に沈むのを眺めれば、私の背中側の地平線では、つまり太陽が沈むのと真反対の地平線では、今この瞬間に月が顔を出しているんだなぁと思っていました。シーソーのように。
幼い私たちはそんな仮想的な太陽と月の関係のイメージを教えられながらも、昼間に月を見つけるとなんの憤慨もなく「あっ月だ!」なんて喜んでいたんですね。
いや、ほんと、どうして私は怒らなかったんだろうと思うのです。変かな。
だって本当は月と太陽は毎日バトンタッチなんてしてなかったわけだし、小学校に上がる頃には、ある程度の理論をもってして本当の月と太陽の関係性を習わされることになる。私はその時にも怒らなかった。
幼い頃に「そしたら昼に月があんのおかしくね?」って怒ることのできなかったせいで、私はオトナになった今、昼間に白い月を見つける度に少しずつ、本当に少しずつ、何かに対して怒らなくてはいけないような気持ちになります。
なぜ月と太陽の関係性について、あんなロマンチックな嘘を教わらなければいけなかったのか。
そして後になって、何事もなかったかのように教科書の上で本当のことを説明され、その時に誰も私に謝ってくれなかったのか。
当然のことながら、謝ってくれた人なんていなかったと思う。たぶん。
みんなもしかするとそんなこと全然気にしてないんでしょうか。
でも私は気になってしまうのです。
こういうことが、たまにどうしようもなく許せなくなってしまう昼下がりがあるのです。
なので私は今日も水色の空に月を見つけると、どこにぶつけてよいのかわからない少しばかりの怒りを、空になったコーヒー缶のように手にぶら下げて歩きます。ぶーらぶら。
しばらくそうして歩いていると、もしかして私のこの怒りは純粋無垢なる幼き私に嘘を教えた世間ではなく、微塵の疑問を持たぬまま昼間の月を好きになってしまった私の方に向けられているような気がしてきました。
皆さんにはこういうことってないんでしょうか。
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