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小説「ある定年」⑬

 第13話、
 打ち水の撒かれた飛石伝いに進むと、玄関のガラス越しに女将の立ち姿が見えた。紺地の裾に紫陽花を散らした粋な着物に身を包んでいる。
「猪口さんお待ちかねです」
女将の芳野に先導され、和室の並ぶ畳廊下を進んだ。内庭には植え込みの間に手水鉢と鹿威しが設えられ、和の空間を演出している。通5丁目の料亭・房州楼は明治初期から続く高級料亭で知られている。
「江上さんがお見えです」
 芳野が襖を開け、彼を座敷に導き入れた。八畳間の柱や長押には漆塗りで、隣室の洋室にはレトロなソファなどが置かれている。
「今日はご招待頂いてありがとうございます」
「まあ、かしこまらず。今日は鮎が食べたくて誘ったんだ。なあ女将、いい鮎を仕入れてくれたんだろう」
「それはもう、わざわざ猪口さんと江上さんの上客にお出で頂いたんですから。お任せください」
 市議の猪口は常連で、江上も何度か招かれている。
「この間の大日如来坐像はよく書けてたよ。さすが江上君だ。特に古物商が市に売却を打診したことがあるってくだりが、意味深で面白かったよ」
「あの件は猪口さんも知っているでしょう」
「後で知ってな。もったいないことをしたよ。オークションで大騒ぎになる何年か前だろう、当時の担当者も価値が理解できなかったんだろう」
「取材で知って、本当に驚いたんですよ。研究者に打診するとかしたんですかね。まあ、もう後の祭りですが」
「それでも義兼ゆかりの運慶作の仏像が1体は残っているんだから、まあ、良しとしないと。あの仏像を最大限利用して、市長は今後、足利氏発祥の地をアピールするつもりなんだろう」
「今年度から3か年事業で、足利源氏を焦点に誘客事業に乗り出しましたからね。本格的に力を入れるのは初めてじゃないですか、足利氏で」
「地方自治体の差別化が問われる折、足利の強みの歴史と文化を活用するのは間違ってはいない。刀剣展のように、足利氏で人を呼べるようになればいいんだが」
 足利に限らず、全国の自治体が限られた歴史・文化資源で観光振興策を展開しているが、観光資源の豊富な京都や奈良、日光のようにはいかない。刀剣展のように、ブームを機敏に捉えたり、ストーリー性を持たせたり、B級グルメに代表される新たな食文化の提供などを模索する必要がある。北斎でまちおこしに成功した小布施町(長野県)が好例だ。
「ところで、耳にしたよ。65歳定年だって、それに支社が閉鎖されるそうじゃないか」
「まだ秋の話なので、後できちんとご挨拶しようと思って」
「残念だな、江上君がいなくなると」
「そう言ってもらえて、恐縮です」
「ところで日新に何年いたの?」
「10年弱ですね。猪口さんには本当にお世話になって」
「そうだ、鑁阿寺本堂が国宝になった年だな、確か君の署名記事を見たのは。よく調べてる、歴史文化好きな記者がやってきたなって感じたんだ」
 源姓足利氏の氏寺・鑁阿寺本堂の国宝指定は平成25(2013)年5月で、江上が日新の派遣記者として第3の人生をスタートした年だった。栃木県内の国宝指定は約半世紀ぶりとあって、研究者や郷土史家を取材し、鑁阿寺が中世の貴重な文化財の宝庫であることを書き込んでいた。
「以来、君の面白い記事は妻にスクラップさせていてね。足利学校の日本遺産認定もあったな、君が来てから立て続けにビックニュースが舞い込んできたんだ」
「鑁阿寺の2年後でしたね。文化庁の初めての認定で、学校門前で市長以下勢ぞろいしてくす玉を割り、街が沸き立ちましたね」
「その年からじゃないのか、刀剣ブームも。足利学校がと刀剣女子の間で話題になっていることも君の記事で知ったし、その後の一連の刀剣ニュースも江上君がリードしてきたからな」
「その時でしたね、足利学校で布袋国広が展示されて、その刀の前で猪口さんと国広の話で盛り上がったのは。旧足利市史など国広の出ている地元の文献を色々教えてもらって、後々大変役に立ちました」
「あの足利学校の展示がきっかけで、山姥切国広の展示につながったわけだ。堀川国広が市の新たな文化、観光資源になったのだから、感慨深いよ」
「その後も極秘情報を頂いて、その節は助かりました。情報統制していた担当課からは相当にらまれましたがね」
「そりゃ記者の仕事柄、仕方ないだろう。公務員に煙たがられる記者じゃなきゃ意味ないよ。いい話なんだし、スクープされて盛り上がった方のがPRになるんだよ。それが分かんないだよ、公務員ってのは秘密主義で」
 襖が開き、女将の芳野が追加の徳利と鮎の塩焼きを持ってきた。
「随分、盛り上がっておいでで。四万十川産の鮎なので熱いうちにお召し上がりになって」
「いや、昔話に花が咲いて、それより、日本最後の清流の天然アユか。まず腹ごしらえだ。話すことは山ほどある」
 猪口の促され、江上も腸にがぶりと噛みついた。
「いかがです」
「こりゃ、旨い。酒の肴に最高だ。女将、江上君にじゅんじゃん注いでくれ。今日は65歳定年祝い、というより、残念会か」
「江上さん、定年なんですって。まだお若いのに」
 芳野が江上の盃に徳利を傾けた。
「そうだ、まだ若いんだし、まだまだ働けるな。この後、仕事は何か、当てがあるのかね」
 猪口が箸をおくと、話を切り替えた。
「まだ決まったわけじゃないんですが、一つ試験を受けて、1次試験の書類審査はパスしてまして」
「そりゃ、結構じゃないか。ところで、どこの会社をうけたの。やっぱり新聞か雑誌の記者か」
「いや、地域おこし隊員の試験で」
「地域おこし?あの国の事業の。それでどこの」
「秋田県内の地域おこし隊で」
「秋田?」
 猪口は手にした盃をテーブルに戻した。
「ちょっと待て、秋田に行くっていうのか。女将も日新読者で、江上ファンだったよな、連載記事で房州楼を取り上げてもらって以来。どう思う」
「猪口さんのお許しがあるから、差し出がましいかもしれないけどお聞きしていい。江上さん、秋田のどなたかに頼まれて、試験を受けたのかしら」
「いえ、自分の経験を生かせると思って」
「まちおこし隊員っておっしゃいましたわね」
「ええ、秋田のまちおこしです」
「江上さん、足利生まれの足利育ちでしたわね」
「山前ですけど」
「お気を悪くしたら御免なさいね」
「どうぞ、遠慮なさらずに」
「秋田でまちおこしって、何かしっくりこないわ。足利がお嫌いになったの」
                          第14話に続く。

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