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小説「ある定年」⑫

 第12話、
 空梅雨気味で、真夏の陽光が照り続け、猛暑日が続く酷暑となっている。足利は全国ニュースにも取り上げられる館林(群馬)、熊谷(埼玉)、隣市の佐野に囲まれ、夏の蒸し暑さは耐え切れない。
「今日も暑いな。車の寒暖計が四十度を超えてたよ。ハンドルは熱くなって持てないし、たまんないね、この暑さは」
「本当、今日も暑くなりそうですね」
 足利市広報課の女性課長、池辺がにこやかに相槌を打った。
「会見資料はもう出てる?ネタ不足で各社、困っているんだ。面白い案件を発表してもらわないと困るよ」
「江上さんの得意な案件じゃないんですか。今日の案件は」
 池辺は手元のA4判の会見資料をテーブルの上に差し出した。
「あっ、これか。美術館の企画展、大日如来坐像の展示か」
「久しぶりのの里帰り展示で担当課も張り切ってまして。どうですか、これなら話題性はありませんか」
「いいね、歴史と文化のまちにふさわしい話題じゃないか。こりゃ記事になるよ」
「提供写真も会見後、メールで送りますから、ぜひ、大きく扱ってくださいね。期待していますから」
 普段、口うるさい記者連中にネタがない、報道対応が悪いと嫌味を聞かされているだけに、池辺は得意気に念を押した。
 記者会見場は市庁舎4階にある特別会議室で、その中央には大型の楕円形のテーブルが置かれ、それを取り囲むように新聞各社、地元のケーブルテレビなどがスタンバイしていた。市長定例会見は毎月1回、20日に開かれ、毎回、市政情報数件が公表される。市長に直接質疑できる貴重な時間で、案件以外、フリーに質問できる。
 市長の石原が「春の刀剣展に次いで、足利らしい話題を発表できる運びになりました」と切り出し、大日如来坐像の展示概要を自ら説明。担当課が追加説明を加えた。
 大日如来坐像は源姓足利氏(足利源氏)2代目・義兼が鎌倉期、仏師・運慶に制作させたとされ、国重要文化財に指定される。義兼は鎌倉幕府を開いた源頼朝(鎌倉殿)と義兄弟で有力御家人の1人。放映中のNHK大河ドラマ・鎌倉殿の13人にあやかり、足利PRの一環で急遽、展示となった。
(32年ぶりの里帰り展示?)
 江上は説明の一部に違和感を覚えた。
 同坐像は市内の光得寺所蔵だが、平成8(1996)年、東京国立博物館に寄託されたと記憶している。以前、江上は独自に取材し、一度、紙面化したことがあった。
「確認ですが、里帰り展示としては26年ぶりではないですか」
 江上が指摘すると、市長の石原は両目を丸くさせた。
「おいおい、寄託されたのは何年なのよ」
 日朝新聞の老練記者、最勝寺が突っ込んだ。
「足利での展示は32年ぶりですが、寄託は平成8年なので里帰りとしては26年ぶりとなります」
 市長に促された担当職員が資料を探った末、説明し直した。
 新聞に間違いは厳禁だ。始末書ものになる。説明をうのみにして、「32年ぶりの里帰り展示」と見出しを打たれてしまうところだった。
 次の案件に移り、新型コロナ感染対策の説明が続いている。年初からの第六波が小康状態となり、全国の新規感染者数は1万7000人前後と減少傾向をみせるが、まだまだ予断は許さない。
 取材バッグの私用スマホがメール着信を知らせた。慌てて電源を切ろうと待ち受け画面を見ると、秋田県内の業界団体からのメールだった。音声を切り、メールを見た。
 ーー書類審査の結果、第1次試験は合格となりました。最終面接はオンラインで行います。追って連絡差し上げます
(本当、よかった)
 江上は思わず頬を緩めた。
「なんか嬉しそうですが、江上さん、いいことでもあったんですか。そうか、あの執行部をやり込めた質問でしょう」
 会見後、隣席にいた毎朝の財部が話しかけてきた。
「おいおい、人聞きの悪い言い方するなよ。間違っちゃ困るから、確認のため指摘しただけだ」
「でも、執行部の皆さん、顔を強張らせていましたよ。折角の話題に水差されたと思っているんじゃないですか」
 確かに財部の指摘も一理ある。会見後の取材で確認しても良かった。残されたわずかな記者人生、質問せずにはいられなかった。
 大日如来坐像は面白いエピソードに事欠かない。当時、市内の女子学生の調査で運慶作が判明したことや、片割れとされる別の大日如来坐像が米国のオークションに掛けられ、海外流出の懸念が全国的に話題になったことだ。書き込んだ肉厚な記事で足利をPRし、埋め合わせすればいい。
 帰宅後、妻の千香が帰宅するのを待って、江上は合格の報を知らせた。
「あつ、そう。それは良かったじゃない」
 妻はいつものように冷静に受け止めた。
「内心、落ちたらどうしようと冷や冷やしていたんだ。記者経験もあるし、まちおこしにも従事したし、相手が求める人材の用件にはとりあえず、当てはまっているとは確信していたからさ」
 65歳定年を控え、第四の人生に向けた最初の挑戦で、スタートから躓きたくはなかった。正直、江上は安堵した。
「どう、前も言ったけど、子供も独立し、お義父さんもお前の妹夫婦が面倒みているんだから、思い切って移住してみない」
「移住?秋田に。寒いじゃない」
「そりゃ、寒いけど。契約期間は最長3年みたいだから、期間限定でお試し移住って選択肢もあるんじゃない」
「だけど、私、仕事あるし」
「協力隊の収入と年金で、もうパートを続ける必要はないよ」
「そうだけど。この家の管理はどうするの」
「だから、太郎一家に期間限定で住んでもらえば」
「うーん、でも」
 千香は言葉を濁らせ、乗り気でないことをにおわせた。
「あなた、単身赴任ってことも考えてんの」
「単身かあ?」
 単身赴任は4、50年代の頃、都内と栃木市で経験したことはある。当時は世間並みに子供の教育に配慮したやむを得ずの選択だった。65歳定年、仕事はやりたいが、家事は正直、敬遠したかった。
「まだ面接があるんだし、よく考えましょ」
 千香はもう勘弁とばかり、話を打ち切った。
                         第13話に続く。


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