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小説「ある定年」⑤

 その5、
 新聞各紙は連日、ウクライナの惨状を伝えている。家を破壊され泣き叫ぶ老女、赤ん坊を抱きかかえ放心状態の若い母親、キーウ近郊のブチャでは住民複数の遺体が道路に投げ出されている。ロシアの侵攻は止む気配を見せない。
 江上は小さくため息をつき、テーブルに新聞を置いた。
 戦争は反対だ。でも、売られた喧嘩で家族の身が危険にさらされるなら、武器を持って戦わざるを得ない。戦争が悪なのではなく、一方的な侵攻が悪なのだ。
 戦前、報道機関は時の政府や軍部に迎合し、真実を伝えることなく、戦争をあおった。その反省を踏まえ、今の新聞がある。一地方の末端の記者だが、現実の惨状に目を背けることなく襟を正さなくてはならない。
「よう、江上さん」
 しわがれた声に、江上は現実に引き戻された。
 東西新聞の記者、横尾が記者クラブに顔を見せた。足利市役所の記者クラブには大手紙、地方紙、NHKの計7社が加盟している。
「ウクライナからの避難民、何か、情報は入っている」
 横尾は、持ち前の押しの強さで江上を見据えた。彼は50代前半、3年前から足利駐在に駐在している。社会部上がりの情報通で、精力的に記事を掘り起こしている。
「市も受け入れ態勢を急いでいるようだけど、今のところ、聞いていないな」
 江上はさりげなくかわした。
「もし避難民を受け入れれば、栃木県内で初だからな。落とすわけいかないし」
「足利に限らず各市、競って広報するんじゃないかな。受け入れ次第、直ぐに発表してくれとは広報担当には伝えてあるけど」
「隠し立てする話じゃないから、大丈夫か。ところで日新さん、大変なんだって。大胆なリストラするって話だけど」
 横尾はソファに座ると、本題を切り出した。
「へえ、そうなの」
「相変わらず、口が硬いな」
「どこで仕入れたんだい。そのリストラの話を」
「そりゃ、明かせないな、取材源の秘匿だろう」
「それじゃ、こっちも取材源の秘匿で、何にもしゃべれないな」
 2人とも苦笑いを浮かべた。
「俺の聞いた話だと、通信部を閉鎖して支社局に統合したり、支社局そのものを閉鎖するってことだけど。宇都宮支社はどうなるのよ?」
 熾烈な生き残り競争が続く中、競合他社の動向は見逃せない。天下国家を諳んじる新聞だけに、週刊誌も鵜の目鷹の目でスキャンダルに目を光らせ、普段の鬱憤を晴らすかのように大見出しを打つ。
「だから、何にも聞いてないし、知らないと言っただろう、しかも俺は派遣社員だから、そんな会社の極秘情報を知るわけがない」
「まあな、末端の記者じゃしゃべれないわな。まだ役員会で正式決定されていないようだし」
「でも新聞業界、どこも五十歩百歩だろうよ。どこの社も決して良くないんだから。リストラは遅いか早いかだけさ」
「まあ、そりゃそうだ。それで江上さんはどうするの?今年、65歳定年って言ってたよな」
「秋にね。何も決まってないさ、次のことは」
「いずれにせよ、逃げ切り世代ってわけだ。羨ましいよ。新聞業界、良くなる見込みはないからな。若い記者は特に大変……」
 横尾の話を遮るように、毎朝新聞の財部が入室してきた。
「何ですか、若い記者って、私のことですか。嫌だな、また何か、私の噂話でもしてたんでしょう」
 財部は顔を顰めて、横尾の左脇に座った。財部は大卒後、県警回りを経て、2年前、足利通信部の担当になった。
「噂話じゃない、若い記者は前途多難だって心配していたのさ。新聞経営が傾いているからな。最も毎朝はまだ安泰か、リストラした話も聞かないしな」
「そんなことありませんよ、うちの会社だって、コロナの影響で広告収入も随分落ち込んでいるようで」
「コロナの影響はどの社も同じさ。みんな自粛、自粛で経済活動が止まっているんだから。それより、日新さんの話は耳に入っているんだろう」
「えつ、まあ。大体の話は」
 財部は、先輩格の江上に配慮して言葉を濁した。
「いいんだよ気にしないで。経営問題は、末端の一記者じゃどうにもならない。なるようにしかならないからな」
「だけど、江上さんはどうなるんですか」
「俺は、いずれにせよ、今年9月に65歳定年だから。どうもこうもないよ。お役御免だな」
「嘱託とかで残るとかは」
「まず、あり得ないね。今が嘱託みたいな立場だから。それに、みんなが耳にした噂のように、厳しい状況なんだから」
「そうですか。なんか、寂しくなりますね」
 記者職を離れ、記者クラブとも疎遠になるのか。気軽に飲み歩くことも憚れる。同業他社はライバル同士だが、気心の知れた良き仲間だ。記者仲間と話すにつれ、江上は現実を実感し、寂しさが募るのを感じた。
「なんだい、珍しく、みんなお揃いで」
 東都タイムズの木ノ内が太鼓腹をゆすって顔を見せた。歯に衣着せぬ一家言の持ち主の一方、豪放磊落、取材先の女性陣にこまめに土産物を持参する繊細さも持ち合わせている。記者クラブで江上に告ぐ年長者で、来年六十歳になる。
「いや、日新さんの話で」
 横尾が話を向けると、木ノ内は
「まったく、どうしようもねえ。どこの社も、経営の分かんねえ記者上がりが指揮してんだから」
「どうしたんです?朝から随分、ご機嫌斜めじゃないですか」
「どうもこうもじゃねえ。まったくどうなってるんだ」
「本当、何かあったんですか?そうだ、また昨晩、飲みすぎたんでしょう、行きつけの小保方で」
 飲み仲間の財部が冗談交じりに口を挟んだ。
「馬鹿言ってんじゃねえ。お前らも、他人事じゃねえと言ってんだ」
「僕らがですか?」
「そうだ。うちもだってよ」
「リストラですか」
「早期退職を募るってさ。まったくふざけやがって」
 木ノ内は腕組みしてのけぞった。江上ら3人は思わず、顔を見合わせた。
                         その6、に続く。

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