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苔庭とそうじ

とある学生に苔庭のそうじについて質問された。
職人の仕事は体で覚えていくために言葉での説明が思い浮かばない頭になっている。
しかし、何もわからない学生に「箒を使ってササっとやるんだ」なんて言っても乱暴になってしまう。
そこで、自分が何を学んできたのか頭の中を整えてみることにする。



苔庭とそうじ


庭の地表面を一般的な価値観で大きく簡単に分けると、土面、砂利面、石面、水面となり ます。
そして土を被うものに苔や芝があります。

苔と芝の生育の差は湿度が大きく影響し次いで日照が条件となります。
芝はイネ科の植物 であるため背丈が高くなるので庭の景色を保つためには刈り込み手入れが必要となります。
芝に対してここでは多く触れず苔に対して考えてみることとします。

日本の国土の大半は温暖湿潤気候のため比較的湿度が高い状態が多く、植物の生育に対し て大変都合が良くこれが日本の自然観であり庭の景色の特徴となってきます。
要するに日 本の庭には他種の樹木と苔と水は欠かせないのです。

もう一つ日本の庭の影響として建物の性質があります。
古来建物の材質は気候の影響によ り周りに満ち溢れ比較的に手に入りやすい植物で形作られています。
これらの構造は⻄洋などの岩石を用いたものに比べ軟弱であり、寿命を⻑く伸ばすためには組み上げる際の材 質の適合性と建物に住まう際にはそれらを清潔に保つことが重要となってきます。
それは 掃く、拭く、磨くなど常日頃当たり前に行うことであり、それを怠ると塵が積もり水気を呼 び、たちまち建材が腐ってしまいます。

はるか古からその営みは受け継がれ清潔感のある⺠族風習が出来上がってきたと考えられます。
建物がモルタル構造の普及する現在でもその癖は残っており非常時の大風などで樹木の葉や生活廃材が家の前に散らかるような事がおこると風が収まった途端に日本人は表に出て掃き掃除が始まります。

この滑稽なほどの清潔感をもった⺠族風習が生まれた原因がここにあると考えられます。

さて、視点を庭に移してみますと、当然その日本人の癖が現れています。 日常的にその行為は繰り返されていますが、金銭的にゆとりのある家では人を雇い、庭を清 潔に保ちまた勝手や趣をそこに入れていきます。

世間ではそれを生業としている者を植木屋と呼んでいます。
植木屋はそうじをする道具を幾種にも分けています。

まずは落ち葉や屑をかき集める「熊手」、塵を集める「箒」、それを入れ取り除く「塵取り」。
そしてそれらがさらに用途により細かく種別されているのです。
道具のことは一旦置いておいて庭の内容について考えてみます。

先にも述べました温暖湿潤気候は通常日頃において『蒸す』というあまり心地よくはない感 覚で表す事ができます。
多種多様の植物にあふれた国土においても、好きなモノを好きなだ け庭に入れ込むと風が流れずに蒸す状態になり虫がわいたりするものです。

人がいる建物 の周りは本来風通しをよくしておくことが様々なものの寿命を伸ばすために必要なことと なります。

建物の縁の下は風通しを良くする、
その周りは乾燥させるよう犬走りを打つ、
歩き道にはぬ かるまないように石を畳んだり砂利を敷いたりするなど。
そしてその周りには植物を配することが多いですが、草本の類や灌木は控えめにして空気の淀みを防ぎます。

石を庭に取り 込むことがありますが、それらの小さな植物は『ねじめ』と呼び石の脇に添えるのが本来の慣わしです。

シダ植物をねじめとすることも多いですが、その場合手入れは葉軸の数を三本から五本にして形よく整えワサワサとさせないのです。

地を這うそよ風がシダの葉をなびかせるような風情、
そこまで繊細に徹底しているのです。
樹木の方も風のつよい場所には防ぐように立揃えることもありますが、
庭の中程は茂らないように刈り揃えたり透かしたり、やはり風が淀まないよう、
その土地の風土によって手を入れていくのです。

そして地表面は日本人の知恵と癖により掃き清められ新たに生える植物は引き抜かれます。

その行為は四季を通し年月を超えて何度も巡り繰り返されます。

すると、自然と湿気の多い 気候のため、ある時苔が生まれます。
そして地表面を覆っていくのです。

苔類は草本類のように背丈が高くならず風通しも良く、
また地表面の風雨に対しての浸食も防ぐ効果もありますが、何より⻘⻘しく清潔に潤ったその美しさが日本の景色として好 ましい様子なのでしょう。

要するに本来美しい苔庭は清潔に掃き清められたあかつきに現れてきたものなのかもしれ ません。

今ではわざわざその景色を作るために環境を整え、苔を持ち込んで地表面に張っていきま す。
ですが苔類は他の植物に比べ生育が単純であるために、些細なことでその場から消えてい ったり、また生まれてきたりもします。
人の欲の意識的操作にしたがいにくい生き物である こともその魅力の一つと言えるでしょう。

一般的に個人の所有する住宅の寿命は現在の日本の事情において4、50年が限界です。
代が変わり続いていくとしてもなかなか財力や思想は継がれにくく、庭においての質感は変わっていきます。

ですがもう少し⻑く続く寺院や所謂家元のようなところではその思想価値観はうけつがれます。

植木屋のそうじの技術はそこを目指すべきであり、
たとえ10年の寿命の庭であってもそういった技の伝があるように感じています。

道具で言えば、呼び名は土地によって様々でしょうが、
箒、熊手があります。これらは立って使うものなので柄があります。
大きな面積を手早く掃除するのに柄がついているのです。

熊手でかき集め、箒で塵を集めます。
また、細かい場所や入り組んだ箇所の落ち葉などをか き集めるために手熊手があります。
これは柄が無いもしくは短く出来ており、かがんで使う 道具です。また手熊手の中にも目の荒い物と細かい物があり、大きな落ち葉は荒い手熊手を 使い集めますが細かめの屑は目の細かい手熊手を使います。

手箒は仕上げの道具であり植木屋はこの道具をハサミと同様に大切にあつかい、他人との 使い回しはしません。

穂先の柔らかい物から使い慣らした硬めのものなど最低でも2種類 は必要です。
苔面の箇所だけで言えば杉苔のような腰が強く毛足の⻑めの苔の面は少し硬めの手箒で塵を集めますが、ヒツジ苔やギン苔のような地表を這う性質のもの、また目が詰まり腰の弱いコケは柔らかな手箒で空を掃くようにして塵を飛ばします。

築山の掃除は下から上に向かって掃きます。高いところから低い方へ掃く方が容易いので すが、⻑い月日を繰り返すうちに地表は削り取られてしまうのでしょう。

十年ほどではわか らない話ですが、百年と繰り返すと大きな差が出てくるのだと気が付かされます。

とある茶家お家元の露路では手箒さえ使わずに竹串で落ち葉を刺して集め、それより細かな塵は拾い集めるようにしているらしいのです。
手箒で苔肌を削らないよう目には見えな いほどの繊細な感覚でそうじを行なっているのです。
あの幽玄とした日本の庭の風情は手間隙をかけた分の証なのです。

ゆえに私が植木屋という仕事について気がつかされたことは、
苔庭とは几帳面な日本人の営みと風土が持て成した奇跡の空間美と言えるのでないでしょうか。


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