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火と人の和

これから書かれる文章は、タイトル画像や題から想像されるものとは若干違うかもしれません。私自身が火を起こす時に、常々思うことをちょっと書き留めてみようと思います。

我が家には、ちょっとした土間があり、そこでチョイチョイ火を焚いている。
特に冬場は暖をとるためにと無意味にも薪をくべ、ポッポッとゆらぐ火を眺めるのが好きだ。
もちろん、火に意味をつけようと肉や魚を炙ったり、酒に燗をつけたり、はたまた目的を持って窯を掛け煮炊きをして、のんきなひと時を過ごしている。
この様なことは近頃では、そう目に付かない世の中になってしまったが、私にとっては日常の景色なのだ。そしてその景色が始まる前に、まず火を起こすと言う作業から始まる。火を起こすと言っても、まさか原始的に摩擦熱を使うわけでは無く、ライターで火を付けるが、アウトドアに使われている着火剤の様な石油製品の類は用いない。ここに一つのドラマがあるのだ。

私の職業は分類すれば伝統的な方に入るのであろう。そう言ったことで後継者不足問題は付き物であり、それに対してやんやと騒がなければならなくなる。やんややんやと言ったって、闇雲に騒ぎ立てているわけではなく、一応計画的に進めているつもりだ。職人の技術講習であったり、大学専門校への職業あっせんであったりする。若いと言うことはあらゆる可能性に満ち溢れている。そして「最近の若者たちが冷めている」とか言うのは気のせいであり、大多数は情熱がある。しかし様々な背景により若いが故の迷いがあるに過ぎない。そして今も伝統技術や自然に身を置くことに興味のある若者達は確実にいる。しかし問題は意識の連携である。時代に合わせた様々な方法と多くの協力者が必要となる。こう言ったことは結構面倒なことであり、あらゆる仕込みが必要となるのである。
そう、火付けが大切なのだ。
仲間や協力者の心に火を付ける。仕込みをしっかりとして、熱を膨らませ、次へと繋いでいく。中々に世話のかかることだ。

さて、薪の火付けとはどの様にするか。
我が家には竈門があるわけではないので、ブリキ缶を用いている。これから起こり始める熱が逃げにくいように缶底に灰を敷くことから始まる。
まず初めに火をつけるのは乾燥した松葉など針葉樹の葉だ。紙などはどうも良くない。乾燥した松葉や杉葉は脂を含み一気に燃え上がる。が、一気に消える。消える前に次に火を渡さなければならない。次に火つきの良いのは竹だ。よく乾いた細く割った竹、これらも脂を含み一気に炎が上がる。とは言え小さな火で、いきなりは付かず、松葉が必要なのだ。そして松葉ほどではないが、竹も燃え尽きるのがはやいので、燃えてる盛りのうちに細く割った薪に火をまわす。そして竹より火持のいい細い薪に火が回ると、ようやくしっかりとした薪に火を渡せるのである。
説明がゴチャゴチャしてややこしいが、要は火付きの良いものから火持の良いものへ繋いでいくと言うことだ。
これが、すんなりと進んでいけば良いのだが、そうもいかないことがある。
大体理由は順番の怠りがあり、一段飛ばしで火を繋げようなんて甘い考えをした時だ。火持がよいものは、火付きが悪いのだ。怠りがあると下火になる。
そんな時はすぐさま一手前に戻り、風を送り込み炎をあげるのだ。マゴマゴしていると、さっきまで燃え上がっていたものが嘘のように静まり返ってしまう。それではさっきまで身を燃やしていた薪たちに申し訳が立たない、間髪入れずにチャッチャとやらなければならない。要するに火を付けると言うことは本来、世話がかかるのだ。
一旦竈門に熱が回れば、頃合いを見て新しい薪をぶち込んでやれば良いだけだ。
ずーっと燃え続けている。
新しい薪を継ぐ。

この一連の行いをする度に、私は人の和と何の違いがあるものかと思わせられる。
コミニュケーション・テクノロジーがどう発展しようが、今のところヒトも天然の一部に過ぎず、薪や何やらと、そう大差は感じられない。
私たちは頭脳から生まれたテクノロジーによる完全なる計画実行の中で生きようとするが、ヒトの住む世界が宇宙空間にある以上、そう易々と計画通りに物事は運ばないのではないかと、火を見つめていると感じてならない。

そして火は恐ろしい。
一瞬で思いも寄らない力を持ち、全てを飲み込むこともできる。
火を操るとはおこがましい、薪という物の連鎖により火の恩恵を受けているに過ぎない。
おそらくこれは想像だが、ヒトがヒトになる時に使い始めたであろう物
火、石、泥
花鳥風月が自然であるのであれば、これらは自然界との接点かもしれない。

自然に学ぶべきことは山ほどある。





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