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カナダからのシェア

過去に書いた文章から、覚書として投稿します。2016年9月に書いたもの。
すでに古くなっている情報もあるかもしれない。

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カナダの大学院へ留学し、ソーシャルワークを学ぶ二木泉さんの記事。2015年4月に投稿されたもの。

カナダでは職場での「ハラスメント」と「いじめ」は異なるものとして定義されてはいるものの、いずれも暴力であり、法律に違反した犯罪行為であると位置付けられている。何がハラスメントで、何がいじめであるかが明確にされているところがポイントなのだと思う。

また雇用者は、その行為を判断する基準を設け、調査・判断・処分を実行する義務を負う。企業はその人間性や正義からではなく、「訴えられると困るから」というような理由から制度を整えていく。

もちろん意味とか意義とか目的とかもあるのだけど、人も組織も理解できる人もできない人も、まるごと動かそうとすると、法律や制度などの圧に拠るしかない。

「多様性がある」、「多様性が生み出す差別が存在する」と認めるからこそ、このような法律も生まれる。生まれざるを得ない状況。ある意味、過酷であるということの裏返しだと思うが、「そこにありありと見えている」のにあたかもないように取り扱われ進行していくほうがよっぽど恐ろしく過酷ではないか。

翻って、被害者個人の性格、性質、能力などの問題に帰され、声が潰されることが多い日本。内部統制が働かないのは、それを監視する統制がまた機能していないからだ。また内部統制もない職場も多すぎる。かといってこの島国において、移民が外圧と成りうるまで待つなんて悠長なことは言っていられないはずだが。


こちらの記事も興味深い。



「人材管理の3つの基本<当事者に・早急に・よく聞く>」は、人間味とか友愛的な対応というより、そうせざるをえない状況があり、合理性と即時性と有用性を優先した結果、こうなったという有り様が興味深い。

「履歴書に年齢も性別も記載しない、顔写真も添付しない。それは違法」は、我々が属する制度は、決して自然に心地よいほうへ流れた結果の今こうなっているのではない、ということを思い出させる。

形骸化して、人から搾取するだけのものは、どんどん廃れていってほしい。