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シンカ論:㉕信じられるか?これ学者なんだぜ。

 前回、様々なフェミニスト達の「表象批判」について、彼女ら(ときどき彼ら)がいかに一貫していないか、場当たり的にものを言っているかを明らかにした。
 しかし、相当数の読者の脳裏に浮かんだのはこういう疑問ではないだろうか?

「そうは言っても、滅茶苦茶なのは単にツイッターで喋ってるだけの一般人だろ?」 
「ちゃんとしたフェミニズムの”先生”だったら真っ当で一貫したことを言うんじゃないか?」

 なるほど、もっともな想像である。
 では、フェミニズムのちゃんとした「学者先生」がこうした表象批判をどんなふうにやっているのか、その最新版をお目に掛けよう。

 このリンク先にあるのは、きちんと社会学の博士号を持ち、なおかつ東北学院大学経済学部准教授を務める、小宮友根というフェミニスト学者の論考である。2019年12月8日に出たばかりの最新版だ。リンクを飛んで今読んでもらってもいいし、私の論を読んでから確認してもらっても構わない。

 では、その内容がどのようにマトモであるのか、あるいはそうでないのかを見ていこう。

1.「表現の自由」の再確認

 小宮教授は、このシンカ論でも今まで見てきたようなフェミニズムによる「表象」(絵や写真などあらゆる「何かをあらわした表現」のこと)批判についてこう宣言する。

まず「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」の内容を簡単に解説しておきます。そこで私が述べたのは、表象の「悪さ」について、たとえば「子どもがマンガの中の暴力的な行為を真似してしまう」とか「広告に表現された差別的な価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。

 おおう、いきなり引っかかる言葉の登場である。
 表象の「悪さ」について(略)「現実への悪影響」とは違った水準で考えようというのは、つまり「現実に悪影響など何もなくても悪いのだ」という考え方にほかならない。

 これは、日本人の生活を支える様々な法制度の根幹をなしている『日本国憲法』の考え方と根本から対立するものである。憲法第二十一条によれば「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされていて、これを含む全ての基本的人権は、第十一条によると「侵すことのできない永久の権利」であるとされているからだ。

 そうは言っても法律で禁止されていることだって沢山あるじゃないか、と言うかもしれない。実際、昔の憲法――誰でも歴史の授業で明治時代あたりを習ったときに聞いたことがあるはずの『大日本帝国憲法』には、第二十九条に「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と書かれていた。

 しかしこの「法律ノ範囲内ニ於(おい)テ」という文言は、戦後この憲法が『日本国憲法』に改正された時、なくなってしまった。なぜなら、大日本帝国が様々な法律を作って人権を制限しすぎたことが、国や軍部の戦争政策に国民が逆らえない環境を作って、けっきょくは大日本帝国そのものを破滅へと導いたからである。日本国憲法はその反省の上に書かれている。大帝国でなくなった今の「日本国」は、公共の福祉に反しない表現を、禁止してはいけないのだ。

「じゃあ、表現の自由の為なら法律を破ってもいいってこと?」

 端的に言えば、そのとおりである。
 公共の福祉にさえ反しなければ、法律なんか破ったっていいのだ。

 ただし断っておくが、これは表現の自由だと言いはれば何を書いても描いても警察に捕まらないという意味ではない。警察はもちろん法律に違反した者は普通に捕まえるだろう。
 しかし捕まった後はもちろん裁判になる。裁判なしでいきなり刑務所に送られることはありえない。その裁判で「私は公共の福祉に反するようなことは何もしていない。それなのに私の行為を法律が禁止していたというのなら、それは法律が間違っている!」と主張して、それが認められれば、法律よりもあなたの行為の自由が優先される。そうなれば、あなたは晴れて自由の身だ。

 では、公共の福祉とはなにか。
 なんとなく「公共のためだ」「みんなのためだ」「日本全体のためだ」と言えば通るというのであれば、大日本帝国憲法の時代となにも変わらない。漫画『はだしのゲン』の世界である。

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(中沢啓治『はだしのゲン』中央公論新社)

 ここはどうしても公共の福祉とはなんなのかハッキリさせておかなければ、軍靴の足音が聞こえて来てしまう

 憲法学者たちの多くは、この公共の福祉について一元的内在制約説を採っている。通説というやつだ。長ったらしいが分解して考えると、一元的とは「ひとつしかない」、内在とは「中にある」という意味である。
 つまり公共の福祉とは「人権そのものの中にもともとある、たった一つの制約理由」のことを指しているというわけだ。それは何かといえば、他のひとの人権である。
 我々の生活はものすごく多くの法律によっていろいろな制限が掛けられているわけだが、それら全ては、そうしなければ他の誰かの人権を侵害してしまうことになるから、(少なくとも建前上は)人権を守るために作られた法律なのである。もしも誰の人権にもこじつけられない法律があって我々の自由を縛っているとしたら、そんな法律は憲法違反であり、破っても裁判で無罪判決が出る(ことになっている)。

 ずいぶん遠回りしたようだが、ようやく話は小宮先生の発言に戻る。

表象の「悪さ」について(略)「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう

 この言葉は、一見ただ「もっと広い視野で考えてみようよ」と無難な呼び掛けをしているだけに見える。
 しかし「表現の自由は、他人の人権を侵害しないかぎり無制限だ」と憲法が定めていることを思えば、「現実への悪影響がない表象の『悪さ』」などという発想がどれほど危なっかしさを孕んでいるか、おぼろげに見えてきたのではないだろうか。憲法によれば、表現の自由を制限する理由は、悪影響が「ない」ときにはもちろん、「ある」だけでも不十分で、あってなおかつそれが人権侵害と言えるほどのものである必要がある。
 が、小宮氏と彼が代弁する「フェミニズム」は人権を侵害どころか、ただの悪影響すら無かったとしても表象を攻撃する。そういうスタンスを、フェミニズムは取っているということになる。

 では「悪影響がない」悪さとはいかなる「悪さ」なのだろうか。

2.「女性観」の決めつけ

 小宮先生はこう言う。

女性表象は――なにしろ女性の表象として作られるのですから――多かれ少なかれ「女性とはこういうものである」という、私たちの社会にある考え(女性観)をもとに作られるものです。
問題なのは、そうした女性観の中には、歴史的・社会的に性差別的な意味を帯びて使われてきたものが多くあるということです。たとえば「ケア役割の担い手」という女性観があります。要は「家事育児介護は女がするものだ」という考え方です。こうした考え方が差別的であることについては現在では多くの人が同意するでしょう。

 もっともなように、一見みえる。
 たとえば2014年、人工知能学会という学会誌の表紙が、フェミニズムに槍玉に挙がられたことがある。

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 女性の姿をしたロボットが掃除をしているようだ。背後には操作用かエネルギー補給用かは絵では判然としないが何らかのケーブルが見える。このイラストにフェミニスト達は噛みついた。

 このイラストは確かに、女性は家事・仕事をする男性のサポート役というステレオタイプを表現しているように見える。だが、このシンカ論(第2回)でも取り上げたことがあるように、実はそうではなかった
 このイラストは連作になっており、結論から言うと「女性科学者が自分をモデルに作ったロボット」なのである。つまりこのロボットは男性ではなく女性をサポートする役割を担っており、本物の女性は外で仕事を、しかも科学者という非ステロタイプ女性的な仕事をしていたわけだ。

 フェミニズムのこの失態で分かるように、女性表象がある「性差別的」価値観に沿って描かれているように見えたからといって、本当にそうであるかどうかは一見して分かるものではない

 このことは特に漫画やアニメ、ゲームなど物語性のある作品において顕著である。むしろ男性消費者の欲望に迎合するような「エロ」や「萌え」作品であるほどそうだと言える。
 なぜなら現実に、このタイプの作品には男性消費者の多様な好みに応えるため、多彩な女性を登場させているからだ。より多くの顧客のニーズに応えようとすればそうなるのが当然である。家事に長けた女性が優しく世話してくれる快適な結婚生活を夢見る男性もいる一方で、逆にそれを苦手とする女性に可愛らしさを見出す男性もいるわけである。
 したがってこれらの作品には、家事が上手な女性も苦手な女性もいる。才女もいれば勉強が嫌いな女性も、スポーツが得意な女性もそうでない女性もいる。巨乳な女性もスレンダーな女性もいる。ピンクを多く使って描かれた絵もあれば、黒や青を多用して描かれることもある。

 となれば、何らかの理由でたまたまフェミニストの目についたヒロインが、そのフェミニストが「性差別的」だと思っている記号に合致するということは当然起こり得る。たとえば2019年10月に日本赤十字社がキャンペーンに採用した『宇崎ちゃんは遊びたい!』のヒロイン、宇崎花はたまたま巨乳であったことで、例えば下記リンクのようにフェミニズムの槍玉に挙げられた。これは「性的なアイキャッチ」だというのである。

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「性的なアイキャッチ」とは、要するにエッチさで目を惹かせることを目的にした画像という意味である。が、これも前述の『人工知能』表紙の例同様、フェミニズムの見立ては間違っていた。日本赤十字社はエッチさで人目を引くことなど狙ってはおらず、ただ「宇崎ちゃん」のコラボがあることを周知しただけだった。その宇崎ちゃんが元々巨乳キャラであっただけの話だったのである。

 これは過去の他のアニメコラボポスターと比較すれば一目で分かる。別に日赤は巨乳キャラメインの作品や、エッチな要素のある作品を狙ってコラボしているわけではないし、巨乳でないキャラを「性的なアイキャッチ」のために巨乳に描かせるといったこともしていない。

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 当たり前のことであるが、元のキャラが巨乳であればポスターでも巨乳であり、貧乳であれば貧乳であり、男性であれば男性であるだけの話である。日赤は「性的なアイキャッチ」のためにアニメヒロインを使っているのではなく、そのアニメとのコラボキャンペーンを告知するためにキャラクターを使っているに過ぎなかった。

 フェミニズムは、また間違えたのである。

 この2例から改めて分かることは、フェミニスト達には、ある表象が「性差別的な意味を帯びて」(小宮氏の言葉)使われているかどうかを見抜く眼力が全くない、ということである。なにしろ、ポーズが内股であれば「おしっこを我慢している」とありえないクレームを付けて来るのがフェミニストなのである。

 こうした考え方はまだ私の社会のあちこちに見られます。「女の子だからと家事の手伝いをしなさいと言われる(お兄ちゃんや弟は何も言われないのに)」というのは女子学生がよく挙げる不満話のひとつです。「赤ちゃんはママがいいに決まってる」と言って批判を浴びた政治家もいました。こうした発言は「家事育児は女性がするものだ」という考えのもとににおこなわれていると言えるでしょう。
 表象の作成も同様です。たとえば「家族」を描くとき、家事育児をしているのをもっぱら「女性」にするならば、その表象はやはり「ケア役割の担い手」という女性観を前提にして作られています。つまり、家事育児を女性ばかりがしているような表象を作ることは、「ケア役割の担い手」という女性観を前提におこなわれる、数ある現実の行為のうちのひとつなのです。

 小宮氏はもっともらしいことを言っているが、そもそもその「表象」が前提としている「女性観」をひっきりなしに見誤り続けている以上、フェミニズムの仕掛ける「炎上」に正しさがあるなどとは到底言い得ないだろう。

3.確証バイアスの罠

 小宮「先生」は続ける。

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