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ただ淡々と、粛々と。

あの日、

営々と築いてきた生活の何もかもを失って、

被災者という十字架を背負うことになって。

それ以来、早春の頃になると、

あの日から何か変わったかを振り返ることを義務付けられ、

何が足りないか、どんなに頑張ってきたかについて

何かしらのコメントをすることを求められて。

みんながみんなそんな風に、

一年を振り返りながら過ごしているわけでもなかろうに。

まず、自分に問うてみてくれ。

10年が経つから何かが終わったり始まったりするのか?

あの日の凍える真っ暗な記憶を風化させないことが

ようやく安穏と暮らす日々にどんな意味を与えるのか?

風化してくれた方がいいことだってあるとは思わないか?

自分たちにとって都合のいい部分だけを切り取ってないか?

こんな時だけ思い出して、わかったようなこと言ってないか?


あの日までも、あの日も、

そしてあの日からも、ずっと、

わたしはただ普通の人として、ただ淡々と粛々と、

自分の人生を普通に生きていきたいと願うだけなのだ。














*****

あの地震・津波で、父は兄姉と従兄弟と甥姪と、故郷の町を失いました。

当時東京にいた私は、3月末に東北自動車道が開通すると同時に帰省し、

父母の住む山麓の家から父母を乗せて海辺の町へ車を走らせました。

カーナビが目的地に設定したおばさんの家に近づいたことを知らせても、

目の前に広がるのは生活臭の残る断片が無秩序に積もった瓦礫の山。

ひっくり返った自動車学校の教習車。誰かのアルバムの1ページ。

3年1組と書かれた緑の体操着。タンスのひきだし。蔓延る雑草。

そこからしばらく走って着いたのは、難を免れた葬儀社のホール。

そこはブルーシートとベニヤ板で設けられた安普請の安置所。

海から上がった多くのご遺体。行方不明の家族を探す人たちの疲弊した顔。

そこからまたしばらく走って、たどり着いたのは常磐線の駅だった場所。

小作農家の倅だった父が、夜学に通うために毎日使った駅だった場所。

津波に耐えて残っていたのは、煉瓦積みのホームと階段の鉄骨の一部。

灰色の荒野の真ん中には、とりあえず始まった新しい暮らしのために

電柱を立て、電線をひいている自衛隊の方の姿。

どれもこれも、見たことのない、圧倒されるような景色の連続。

その道中、父も母もわたしも、ほとんど無言で、無表情でした。

*****

その数年後、父は病に倒れ、呆気なく旅立ちました。

あの地震、あの津波については、最期まで多くを語りませんでした。

もしかしたら、言葉にならなかったのかもな、と思います。

父自身は、直接の被災者ではありませんでした。

肉親をなくし、故郷をなくし、思い出の場所をなくしましたが。

震災から10年。

連日のテレビやネットの報道を見聞きし、

あの日のわたし自身の見たもの、感じたことを思い出し、

その時の父の無言の意味を考えていたら、

こんな角度からの一文になりました。

受けた傷も、寄り添う形も、

百人百様、千差万別。

それでも日々は、それぞれに続いていきます。

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