「エクソシスト 信じる者」鑑賞後メモ

 アメリカという国を構成している根幹的な思想として存在するキリスト教的なマインドを解体していくことを今作は試みているというか、より平たく言えばアメリカに暮らす白人中年男性による自己批判的なトーンが本編を覆っている。それぞれの人物造形が図式的すぎるきらいはあるものの言及している事柄自体は非常にシリアスで根深い問題だ。

 主人公のヴィクター(レスリー・オドム・Jr.)は過去の経験により宗教に対しては懐疑的な感覚を抱いている黒人男性であり、とはいうものの基本的には理知的な柔軟性を元にした思考や行動を取れる人物であることは一人娘のアンジェラとのやりとりなどを通して端的に示される。その他にも、今作における女性は基本的に物事を落ち着いて捉えることが出来る存在ということが一貫している(というか監督であるデヴィッド・ゴードン・グリーンが自戒的なテンションに振り切っている)。また、アンジェラと彼女の親友であるキャサリンとの関係性においては直接的な言及はないものの、森の中での降霊術的な儀式における親密さにおいて若干クィア的なムードも仄めかされているようだった。こうした人種、ジェンダー、ジェネレーションのレイヤーによって、今作においては彼らが保守的な白人男性コミュニティ(教会やその関係者が象徴的)と対をなす存在であることが示される。

 上述したような人物造形の振り幅があるものの、最終的には全ての人物(非白人的な存在であっても)がキリスト教的な神話の構造に包摂されていくような展開となっていく。その中で浮き彫りになるのは、自分自身の思考体系を構成する根幹的なマインド(今作においては特にキリスト教)を相対化すること、そしてその思想を超えて身近な人間の実像を捉えることのある種普遍的でもある難しさだ。ここにおいては、ヴィクターが職業カメラマン(虚像を見つめ続ける仕事)であるという設定が静かなアイロニーとしても効いている。アフロ・アメリカンであるヴィクターやアンジェラらが強いられる苦難も切実なものではあるが、Z世代の若い白人女性の行き場のなさの描き方はかなり厳しいというか、やはり最初に記したような自己批判的な意味合いが非常に色濃い印象を受けた。

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