「ゴジラ-1.0」鑑賞後メモ

 ゴジラが出現する直前の予兆を表すものとして深海魚の死骸が海に浮かび上がってくるという演出があるのだけれど、その死骸が色合いや形状的に男性器や精子を思わせるものになっているところに少し驚いた。これによって今作におけるゴジラが、男性性やマッチョ性を無に帰す存在であることが端的に示されている。実際、最序盤の大戸島におけるゴジラとの接触において主人公の敷島浩一(神木隆之介)は戦闘機に搭載された爆弾を「発射」することが出来ないままその場を生き延びるのに対して、ゴジラへの恐怖を堪えきれずに発砲した飛行機の整備士たちは橘宗作(青木崇高)を除いて全滅してしまう。この構図はこのあと何度も繰り返され、先述したような象徴性が強調されていく。

 ゴジラとの最初の遭遇を生き延びた敷島はその後、偶然巡り会った大石典子(浜辺美波)や戦争孤児の昭子らと共に戦後の日本という過酷な状況下で、それでも慎ましく暮らすことに努める。そんな中で敷島という人物の視点を通したゴジラという存在は徐々に「今まで見て見ぬフリをしていたもの」という意味合いをも帯び始める。敷島は常に大戸島での悲劇のフラッシュバックに苛まれながら、空襲で亡くなってしまった両親から授けられたのであろう「生きて帰ってくる」ということを信念とする知性的な思想(もしくは典子が体現しているような母性)と、彼にとって最大のコンプレックスでもあるヒロイズムやマッチョ的な男性性との間で揺れ動く。

 上述したマッチョ性は特攻という行動によって保守的な思想もしくは愛国心と重ねられながら象徴的に描かれているのだが、それを対象化し批判するための大きな演出が今作にはふたつある。ひとつはやはりゴジラ映画なので当然それが破壊するものによって端的に示されるのだが、今作において最も強烈な演出と共に破壊されるのは国会議事堂だ。本編の中盤あたりでゴジラが銀座に出現、しばらく周辺の建物を破壊するシークエンスが続いた後で国会議事堂とその手前で砲撃を行う複数台の戦車が映される。これを見つけたゴジラは背びれを青色に光らせながら放射熱線を放つためのエネルギーを蓄え始めるのだけれど、このときのゴジラの気合いの入りっぷりが凄まじすぎてその構図に思わず笑ってしまった。「三丁目の夕日」の映画を撮った山崎貴監督自身がこれを行なっているのだという背景も踏まえてこの破壊シーンを振り返ると、単に「全てを黙って見過ごしてきた」自国の政府批判という意味合いだけでなくなによりこれまで数多くの「保守的」な作品群を生み出してきた監督自身による自己言及的な演出としてもかなりエクストリームなものとしての印象を受けた。

 そしてもうひとつ、佐々木蔵之介演じる秋津淸治というキャラクターが放つセリフも先述した自国政府批判ないし監督による自戒としての意味合いを帯びていることが多かった。本編前半の方で聞ける「だからこの国は変わらないんだ。いや、変われないのか」や「またこの国お得意の箝口令か」といった辺りがわかりやすい例であると思う。テレビ局制作のドラマに出ることも多く、ある意味で世間的には「保守的」な印象を与えてしまっているかもしれない佐々木蔵之介がそういった役割を担っているのは、本人による意向という部分も大きいのだろうかと邪推してしまった。

 今作のクライマックス、相模湾における戦闘のシークエンスはグレーを基調とした画面になっており、54年の初代ゴジラへのリスペクトを織り込んでいる。この場面における戦い方やその顛末、それに至るロジック自体は丁寧に構築されている印象を受けた。この文章の最初に言及した「男性性を無に帰すもの」に対していかに対峙するべきなのかという主題に対しての回答として、またタイトルの「−1.0」というフレーズの意味合いを明示するという点においても優れていたように思える。

 というか、山崎貴監督がこれを完成させたということがなんだか信じられない。もちろんコテっとした邦画としての雰囲気がないわけではないのだけれど、単純に自己言及的な作品としてここまでやり切るのはちょっと衝撃的。

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