「みなに幸あれ」鑑賞後メモ

 この世界に生きていることが幸せなのか不幸なのか、もはやわからなくなりそうになる。それこそが「みなに幸あれ」の「ミソ」なのではないだろうか。まあ、いざ死にそうになったらなったでなんとか生き延びようとするのが人間であるはずだ。ただ、だからと言ってその結果生み出されたシステムが清廉潔白な純然たる価値観に乗っ取って構築されているかどうかというのはまた別問題になってくる。かつてどのような価値観が重宝され、または見捨てられてきたのか、その歴史が凝縮され時を経て発酵し始め、そうするとやはり「ミソ」になる(どうしてここまで味噌を強調するのかは、冒頭の場面を見て貰えばすぐにわかるだろう)。

 ホラー映画において最も根源的な恐怖として据えられるのは、生物としての物理的な死であることが多いと思われる。しかし、この作品において浮き彫りにされるのは、どこか呑気にふんわりと進行していくような時の流れのなかで当たり前のように滲み出してくる(一般的には)理解に苦しむ非人道的な行為や現象の数々にまみれた社会ないし世界で生き続けなければならないということに対しての戸惑いであるように思えた。ゆるやかではあるが先行きが全く見通せない、そんな作品構造のなかで「善行」も「悪行」もすべてが同列に並べられ、相対化されていく。どちらも理解できるし、同時になんとなく受け入れ難い、そんなような感覚が鑑賞中常に付きまとってくる。

 この作品のとても面白いポイントのひとつは、上述したようなあらゆる価値基準の境界線の曖昧さというものが、作品自体のトーンやジャンル性を軽やかに横断していく部分にまで落とし込まれているところだ。エンタメとアート、ホラーとコメディ、現実と非現実、常識と非常識を、それは見事な鮮やかさで飛び越えていく。しかし同時に固定されたカメラによるショットを中心に構成されていることで圧倒的な重力のようなものも感じさせる。どこまでもいけるけれど、どこにもいかれない。村の因習モノというジャンル的な要素と同時に、インターネット以降の社会における自由さと束縛感もその構造によって端的に示されている。そういった感触とともに鑑賞を終えた後、「みなに幸あれ」というタイトルはヤケクソのような、投げやりなトーンを内包しているようにも思えた。

 これはもはや「ウィッカーマン」や「ミッドサマー」などにおけるカルトや非キリスト教圏の遠い国の世界の話でもない。いま生きている自分自身の日常における「ふつう」という感覚についての物語であるというリアリティに満ちている。家父長制という概念を逆照射することによって浮かび上がる禍々しいなにかが、ごく普通の戸建の一室に存在しているということ。

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