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気楽に悩もう、真面目なあなたへ。

気楽でいたい、そう思うことが多いここ最近。これでもびっくりするくらい以前に比べたら楽観的に考えられるようになったし、特に(それは悩めよ!っていうことでさえ)悩むことも激減したのも事実なのだけれど、やはり根が真面目すぎる性格だからなのかすぐになんでも「ちゃんと」考えるモードに突入してしまうのが、これがまた良いのか悪いのか。

ただ、以前は「悩む」ことでついでに「落ち込む」ことも多かったのだけれど、最近は「悩む」ことはあってもそれにともなって「落ち込む」ことはめっきり減ったのが、その中でも助かっている点である。

悩むということは、現状に満足しておらず、できることなら理想に向けて改善したい何か事象があるから悩んでいるわけで、それを「悩んでいる」「ちゃんと考えている」とき、「こうしたい」「こうだったら嬉しい」があるからこそ、本来は「改善した先の理想の未来」に焦点が当たっているはずだから、落ち込むということが起きることは本当はそうそうないはずである。

だけれど我々人間というものは、その理想とする改善された先の未来に焦点を当てたとしても、「そんなの無理だ」「そんなに簡単じゃない」「否定されたら?」「人から嫌われてしまったら?」「失敗したら格好悪い」等々、エゴ的な思考がとどまることを知らないまま同時進行してしまう習性があるがゆえに、結果「悩む」「考える」ことが「落ち込む」ことにつながっているのだろうとわたしは考えている。

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そんな中、わたしが悩んでも落ち込むことがほとんどなくなったのには、このエゴらしい人の声を徹底的に無視するか、言いたいことが言い終わるまで全部ちゃーんと聞いてあげるかのどちらかを、徹底したからなような気がしている。特に後者のアクションは思ったより有効的だったのではないかと思う。

このエゴらしい人の声というのは、究極、「言いたいだけ」という性質を持っているようだ。実際その人がいうことにこちらが従って行動してほしい訳ではなく、ただただ言いたい、喋りたいだけなので「聞いてさえあげれば」勝手に満足して静かになる、という可愛いやつだった、ということをわたしもやってみて知ることとなった。

「そんなの無理だよ」→「うんうん、無理かもしれないねえ。」
「簡単じゃないよ」→「たしかに簡単じゃないかもねえ。」
「否定されるかもしれないよ?」→「そうだねえ、否定されたら嫌だねえ。」
「嫌われちゃうかもよ!?」→「嫌われたら辛いねえ」
「それ失敗したらちょーかっこ悪いよ?」→「めっちゃかっこ悪いね!ダサいね!」

と、永遠に言いたいこと言わせて受け止める、を繰り返していると、最終的には「なーんだ君全部わかってるじゃん。じゃあもう僕言わなくても大丈夫だね!」と静かになってくれる、というのをここ数ヶ月で何度も経験した。または、その人の話が全部終わったら「そうなっちゃうかもしれないけど、大丈夫だよ」「そうなったって、わたしは大丈夫だから安心してねー」と一言伝えてあげるとびっくりするくらい安心して「そっか!そしたらなんかあったらいつでもストップかけてあげるからいつでも声かけてね!」と笑顔で味方になってくれる。

そしてその結果、今のわたしがそうなってきたように「悩むけれど落ち込まない」「落ち込まずに考える」という建設的な図が完成するのである。

・・・

わたしの元々持つ生粋の生真面目な性格はどうも治らないようで、わたしはやっぱりどんな時も悩んでしまう。考えてしまう。幸せ過ぎて特に悩むことないだろ!っていう瞬間でさえ、わたしは悩みたいのかもしれない。考えていたいのかもしれない。さらに上を目指してどこまでも!なんて大それたことは一切思っていないけれど、少ーしずつ、半歩ずつくらいは前に進んでいたいよなって、自分を小震いくらいはさせていたいのだろう。

だからこそ、『気楽に悩む』をこれからも極めていきたいと思う。落ち込んだり自分を卑下したり、周りと比較したりすることなくとも、うまーくヘラヘラ悩んで考えて、チビチビと、そして軽やかに進んでいきたい。

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