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答えがないものの価値

最近の私は、アートや芸術に異様に興味がある。といっても、元々何か学んできたわけでもないし、美術史とか知らないし、じわりじわりと滲み出てきた興味関心に従っているだけなのだけれど、アート作品に触れていることがとても心地がいい。

そして、その中でも「抽象画」というものにものすごく惹かれる自分がいる。
抽象画とは、具体的に存在する対象物の造形を描くのではなく、対象物の点、線、形、色彩といった造形要素を自由に構成し描くもののこと。

抽象的な表現すぎて「何を表してるのかわからない」「なんだか自分でも描けそう」などと言われやすい表現方法なのだろうと思うのだが、私はむしろその抽象さにものすごく惹かれる。

答えがないものの愉しさ

今までの私は、どちらかというと「答えが明確なもの」に価値を置いてきたように思う。答え、メリット、結果、言語化されたもの、など、明確で分かりやすいものにこそ焦点を当てるべきであって、それに沿って人生を作っていくことが成功への近道だと思っていた節があった。

長い間自分でビジネスをしていたというのも相まって、マーケットに合わせて商品を作り、自分のためより人のため、求められるものにこそ意味があって、それを分かりやすく言語化して、ちゃんと価値を理解してもらうこと、それが自分でビジネスをしているものとしての当たり前であり、成功であり、幸せなんだと思っていた。

そしてもちろんそう生きる人たちがいることを否定しているわけではないし、その人たちにはその人たちのそのような生き方をする幸せがあるし、それが使命な人もいる。ただ、どうしても私自身がそう生きることに違和感を覚えてしまい、動きたくても動けないという、めんどくささを発揮してしまっていた。

そんなときに「アート」という、「答えが不明確なもの」と出逢ってしまう。そしてそれに大きく惹かれてしまう私がいた。

答えが不明確で、それを人生に取り入れることのメリットもデメリットもよくわからない。ただ、完全に「あなたの中で感じることが正解です」と委ねられることが、何より心地よかったし、こんなに自由でいいんだと嬉しくもなった。

自分の中で生まれるさまざまな感情や想い、複雑で入り組んでいて、言葉になんかできなくて、まして評価なんかできないその感覚が、今度は私の中に眠る「私も今こうして生まれたものを表現したい、外に出したい」という欲を駆り立てた。

アートはどこまでも自由

「表現してみたい」というそんな私には、実は何かを描く能力が微塵もない。何もないまっさらな紙板の上に表現できるもの、したいものが一切浮かばない。何かを描こうとした瞬間に手が止まる。頭上にはハテナの嵐。

ただ、そんな私の職業は美容家であり、ヘアメイクアップアーティスト。有難いことに、顔の上に表現できるものだけはエンドレスである。

以前、フラワーアレンジメントを一度体験してみたことがある。花を生けるときの土台と花が与えられたのだが、何をどう生けたらいいものか、その時の私にはちんぷんかんぷん。みんなが楽しそうにパチっ、パチっと花を切って生け始めたことに焦ってしまい、余計私の手は進まなくなる。

しかし、しばらく手が止まっていた私が、その時パッと思いついたこと、それは「この土台を顔に見立ててしまおう」ということ。この部分は目で、この辺りが口、ここが頬で・・・と見立てたことにより、私の手はさっきまでのことが嘘だったかのように動き始めたのである。

私は顔にだったら表現できる。それがその時私の自信になった。アートや表現はどこまでも自由なもの。それはそういう意味で言えることなのではないか。使う道具や描く場所、スピード、何からインスピレーションを受けるかなども全て、どこまでも自由。自由であり、そこに正解も答えもない。シンプルにでき上がったものが答えであり、むしろそれを見た人がどう感じたかが、自分が描いた答えとまた異なることさえ、それで正解。

こうして、アートが今の私を肯定してくれたかのようでなんだか嬉しくなったのと同時に、その方向に少し足を進めてみてもいいんじゃないか、答えのない世界に思いっきり身を置いてみてもいいんじゃないかと少しずつ思えてきているのも、いままでの自分にとってはかなり面白い展開である。

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