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mitomerarenai

「自分のことが分かってもらえないな」という感情はおそらく殆どの人が感じたことがあるのもので特別でない。皆諦めるか、無視をして、或いは他人の言うことをある程度聞いてみるなどして今まで生活してきている。

だから。分かってくれないと不貞腐れることには意味がないよな、と思う。そうしたくなる気持ちは分かるけれどそうしてどういう意味があったのか考えてみてほしいし、教えてほしい。あまりいい経験はないんじゃないか。

基本的に理解されることは難しいと諦めてしまうこと。自分だって他人の気持ちは分からないと自覚すること。人は常識でしか、自分の感覚でしか物事の価値は測れないことが多いので「他人は理解できる」は嘘なんだと決めてしまった方がいいのかもしれない。それなら自分のことに、自分がどうしたくてそれが日々行えているかに集中した方がいいのかもしれない。

最近というか、少し前から思うのは、他人を考える意味の無さ。もちろん、思いやる気持ちは、自分に余裕がある時に援助することは気高いなと思う。ただ、他人の、特に評価ばかり気にして、自分の行動が全く進まない経験が多かった。俺のしたいことは、基本的に誰からも応援はされないと受け止めていた方がより目の前に集中できる経験が多かった。

不貞腐れているわけじゃない。さっき書いた通りに諦めたんだ。そして世界にとってはそれは通常運転だ。したいことの経緯は説明されないと当然分からないし、説明したとしてもなぜそのような道を辿ったのかはその人の価値観によるもので理解はできても共感できないことも多い。自分だって無意識に「それは良くないよ」と何人にも言ってきたんじゃないか。

なすべきことは他人に理解させることじゃなくて、共感を得ることじゃなくて、やりたいことを進めることだ。当たり前のことだけどすぐに忘れてしまって誰かに頼りたくなる。でも誰かに頼ったって「自分」が進むわけじゃないことは自分が良く知っている。自分で、一人で黙々とやることが一番の近道であることを知っている。

誰かに認められれば楽に生きれるのか。誰かに認められないと呼吸はできないのか。そんなことないよな。認められようが、認められなかろうが生きづらいものは生きづらい。それを改善するのは自分で「自分」を進めるしかなくて、今日も空き時間に好きなことやることだ。好きなことをやりまくって自分で自分を認める作業を繰り返すこと。

やるべきことはいつも決まっているのに迷ってしまうのは、自らなんだと、誰かが認めてくれないからじゃないんだと、いつか完全に理解できたらいいな。

精進します。