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相手と同じ土俵に立って闘う ―「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」―

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観ました。

1969年5月13日、異様な緊張感の漂う東大駒場キャンパス900番教室で行われた討論会の様子を写し、当時の関係者や三島の研究者たちに話を聞いたドキュメンタリーです。

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こんなん言われたら悔しいわぁ。


三島氏(以下敬称略)は安定が嫌いだと言った。
私は、安定と思考停止は近いところにある気がしていて、その意味では安定とはかなり危険な状態なのではないかと思う。

『100 de 名著』で伊集院光さんがおっしゃっていた言葉を引用して思考停止の危険性についての説明としますが...

問い続けることをやめるってことは、「答えが出たと思う」か「諦める」かのどちらかになるのではないか。でも「諦める」ことは完全な分断だし、「答えが出たと思う」ことは偏見だと思うんですよ
「諦める」ということは、「この人のことをもう知らなくていい」ということなので、完全な分断だと思うんです。そして「答えが出た」ということは、そこで「偏見」が完成することだと思う。だから一番大切なことは「問い続ける」こと
(名著106「黒い皮膚・白い仮面」

だからこそ疑いの目を持って社会を批判し続けることは、必要だと思っています。

しかしながらある程度社会を信頼しなければ日々の生活を送ることは不可能であるわけだから、三島や当時の全共闘のように既成概念をすべてぶっ潰すことなんてとてもできないとも思います。

討論会の野次で「すべて観念界のお遊び」とあったけれど、結局なにかを認識し、そこにある関係を認め、それを信頼しなければ生活を送ることは
不可能ではないかと。
ここでの「信頼」とは、
100%とは言わずとも、ある程度リスクに目をつむることです。
乗っている電車が事故を起こして大破するかもしれないというリスクを無視できなければ、電車に乗って移動することは不可能ですよね?

嫌でも信頼しなければ、
切腹するか、
芸術という超現実の世界で躍起になるほかないと思うのです。
つまり「日常世界」から逸脱するということですね。

芥さんが「それはあなたの国の話でしょう?私の国では違うから」とおっしゃっていましたが、まさにそういうことなんじゃないかと。

そもそも批判の対象である社会は自分も内包しているのだから、自分が逸脱しない限り「観念界のお遊び」と言われてもしょうがないですよね。
どこまでいっても客観的な視点の欠けた、不完全な思考実験なのですから。

とかなんとか言いつつ、この討論会の1割も理解できていないように思う。
芥さんの娘さん(討論中、芥さんに抱えられて出てくる赤ん坊)の方がよっぽど理解できているかも...。

本当に自分が馬鹿すぎて、ものを知らなさ過ぎて辛くなる。
思考停止という逃げなので、自分を馬鹿というのは嫌いですが・・
(特大ブーメラン)

ただ内容を理解できなくても、
三島が言葉の可能性を諦めていないことは伝わった。

そこには確かに、なにかを伝える媒体としての言葉があった。

そして、相手の揚げ足をとったり、論の矛盾を攻撃したりすることなく真摯に学生と討論する三島の姿から、
教養がある人とは、
相手と同じ土俵に立って闘う知識と余裕がある人だと学びました。
決闘というとマッチョイズムが過ぎる気がして嫌ですが。

今までコンプレックスを拗らせた攻撃的で危ないおじさんだと思っていてごめんなさい~(悪びれた様子のない形式上の謝罪)


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