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女が働くことについて、就活生が考えてみたけど鬱になりそう。

脂肪という名の服は鎧にはならない

私が「脂肪という名の服を着て」を読んで一番初めに思い出したのが、2016年に芥川賞を受賞した「コンビニ人間」である。

女のコミュニティの中で息が出来ず、殻に閉じこもることを選んだ前者の主人公 のこ と、
社会に上手く溶け込めず、コンビニの中に自分の居場所を見出す後者の主人公恵子の姿は、女性が社会で働いていく際に、皆が見て見ぬフリをしている部分を残酷に描いている存在のように思える。
そうであるとすれば、のこが最終的にコンビニのバイトを選んだことは、大きな意味を持つ描写なのではないだろうか。 

「脂肪という名の服を着て」の中で、

「『男』が『活動の主体』である企業が求める『女』、すなわち『男の視線』を内面化した『女』」

であることを放棄し、「誰とも何処ともつながらず自分の殻に閉じこも」り、「他者との紐帯を一切遮断した純粋培養的な自己イメージを職場に持ち込もう」とした のこ は、会社を辞め(させられ)、入院し、その後コンビニで働くようになる。

「コンビニ人間」の著者、村田沙耶香はコンビニバイトについて自身の家庭環境に触れつつ、

「ちゃんと女の子らしくしなきゃいけない、という気持ちが強かったんです。でも、それこそコンビニのアルバイトという空間では、そんなことまったく関係なくて、むしろ声を張り上げたり、キビキビ動くことのほうがずっと喜ばれる。
性別も、なんだったら国籍も関係ない。作中のように、外国人の男の子とだってアメリカンドッグを揚げる作業ひとつで連帯することができる。」

と語った。

この言葉の通り、恵子はコンビニの中では女でも男でもない「コンビニ人間」として「世界の正常な部品」になれる。
しかし、ひとたびコンビニの外に出てしまえば、社会の暗黙のルールが理解できない、周囲から気味悪がられる存在になってしまう。

「社会に生きている以上,形は変わっても,社会からの期待に合うよう自分自身をコントロールする,という責務を何とか果たしていかなくてはならない。
外から与えられた制服やマニュアルを拒否するとするなら,自分自身で新たに自分なりの服装と行動原則を作り出し,それを自分なりの自己提示の仕方として周囲に認めさせていくしかない。
これがしんどいということになると,結局は自己提示の在り方を考えること自体から逃避し,引き籠りになるしか道がないということになる。」

と教育心理学者の梶田は述べている。

この場合の「社会からの期待」とは女にとっての「男の視線」ということになるだろう。
男であることも女であることも期待されない場所こそがコンビニである。
それは働いている女性が一度は夢見るような場所ではないだろうか。

女の労働について考えるとき、女らしく働くか、男らしく働くかというのはさしたる問題ではないと考える。
男スイッチを入れる、男のように働くということは、結局男の視線を内面化した、女を激しく意識した女なのだから。

大事なのは、女を捨てる(性別そのものの概念から脱出する)か、男の視線を内面化した女になるか、の二つの選択肢である。
しかし、前者を選んだ女性に待っているのは、社会におけるコミュニティからの脱落であり、梶田の論文にあるように「引き篭り」か、あるいは「周囲との間に多大な軋轢を経験することになる」かを強いられることになるだろう。

女は男に、社会に屈するしかないのか・・。

その問いは非常に難解で簡単に答えることはできない。しかし、脂肪という名の服は、女を女から解放してくれないということだけは分かる。それは自分を守る為の戦いに必要な鎧にはなってくれないのだ。

参考文献
1 「安野モヨコ作品における労働の問題系」富山由紀子 2012.02.26
2 「コンビニバイトで幼い頃からの「呪縛」から解放された私」週刊現代2016.09.04 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49614
3 梶田叡一. "私は何者なのか 現代社会における自己提示の病理と,「志」 ないし 「宣言」 としてのアイデンティティの可能性." 人間教育学研究 4 (2016): 1-6.
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