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海の中のひとたち/擬音のひとたち〈短編小説〉

 ミオはいつだって加害者であり被害者だものね。

 のんびりとした、それでいて「絶対」を思わせる口調に、ひゅあ。と空気の抜けるような返事が空中に躍り出た。
 言葉など酸素と同じだと言わんばかりに、マイコは私の返事もろとも息を吸う。哀れな音のかたまりは彼女の生命維持を担う役割を全うして消えていった。それを、口を半開きにして見つめる私。を、見えないかのように無視して、まん丸のカプセルを手のひらの上で嬉しそうに転がすマイコ。

 ガチャガチャのカプセルに見えるそれはどうしたのだろうか。ここに来る前にやってきた…?

 あれ?そういえば、ガチャガチャの正式名称は何というのだろう。ガチャガチャは回す時にガチャガチャするからガチャガチャなのであって、ガチャガチャはガチャガチャではない…?
 あれ?そういえば、ここに来る前は何をしていたのだろう?来る?いや、帰ってきた?その時マイコは一緒に居た、たぶん、そう。けれど、隣に居た?
 あれ?あれ?あれ?ここはどこだっけ?ここは部屋だ。ガチャガチャのカプセルとマイコ。呼吸音と私。ひゅあ。

「どうして黙ってるの?疲れちゃった?」

 こめかみの辺りが脈打つように締め付けられる感覚に、ひゅあ。と再び空気の抜けるような声が口から漏れ、思考が一瞬にして飛んでいく。
 ああ、痛い。我慢できない程ではないけれど、存在を無視するには大き過ぎるその鼓動を聞いているうちに吐きたくなってくる。今えずいたら何か出るだろうか、さっき食べたゼリーが戻ってくるかもしれない。

「うんうん、分かるよ。ミオにとっては生きる手段だものね」

 マイコの穏やかな声音は優しく喉元を撫でたあとゆっくりと下り、胃と食道のつなぎ目を圧迫する。あああ、痛い。本当に吐きそうだ。
 ひゅあひゅあひゅあ。穴の開いた浮き輪に空気入れを使い続ける音がする。連続的なその音は止むこともなく耳に届き続け、脳の奥に染み込む。これは、私の息が漏れる音だろうか、それとも実際にこの部屋には穴の開いた浮き輪と空気入れがあり、目の裏側で知らない誰かが膨らまないことに気が付かず延々と同じ動作を繰り返しているのだろうか。滑稽だ、酷く滑稽だ。しかし誰が笑うことなどできるだろうか。そんな人間は存在しない。いや滑稽な様を見て笑うのが人間なのだろうか。そんな生き物は人間以外に私は知らない。

「でもさ、被害者も加害者もないと思うの」

 嬉しそうに、楽しそうに、マイコは笑う。美しく弧を描く唇がさくらんぼのように艶めいている。
 
 くぱんっと押しつぶされたプラスチックの歪む音が、がらんどうの部屋に産み落とされる。半分に分かれたまん丸のカプセルから半透明のビニールに包まれた人形が現れ、マイコはそれを手で破る訳でもなく、はさみを使う訳でもなく、人形の腕の部分を使って引き千切ろうとする。
ぎ、ぎぎぎぎ、呼吸と無音が溜まった部屋に限界まで延ばされた膜の悲鳴が異音となって満ちていく。

「…それがはじまりだったとしても、おわりだったとしても」
「誰かと居たら傷つける事も傷つけられる事もあると思うけどな。悪いとか正しいとかじゃなくて」
「少なくとも大切な人たちに対して、自分だけが悪い、自分だけが正しいなんて事はそんなに多くないはずだよ」
「理解しようとした結果なら、一緒に過ごそうとした結果なら尚更」

 ぎっ、ぎぎぎぎち、
 半透明が白くなって引っ張られる。人形の手が、呼吸と無音と異音が混ぜられた部屋に出てこようとしていた。頭が割れそうに痛かった。胃がひっくり返りそうだった。延々と繰り返される壊れた音が、マイコの声が、重なる。咀嚼する前に放られ、鼓膜をえぐり、頭蓋を割って入り込むそれらは高音になって内側をかき回した後、素知らぬ顔して居座り続ける。
 奇っ怪だ、実に奇っ怪だ。けれどもそんなことを思ったところで頭痛も吐き気も治まらない。現実からは逃れられない。世界と自分の境界がどんなに曖昧になっても私は私だし、苦しみはなくならない。周囲に溶けてしまえれば、ほんの少し他人事に思える自分自身も最終的には生きるために戻ってくる。その苦しみと傷はきっと愛おしいものだ。

「頑張って頑張って気力と時間を使って、自分をぎりぎりまで削って、ようやく伝えたのに」
「どうして被害者面するの?」
「どうして加害者面するの?」
「間違っているか合っているかじゃなくて、これが私の気持ちです、じゃ駄目なの?」
「正しいからってはじめないで。悪いからって終わらせないで」

 ひゅあひゅあひゅあひゅ、ぁ。漏れる呼吸を上塗りして言葉の壁が紡がれる。私は答えない、答えられない、答える気もない。いやそもそも答えを持っていない。どこに置いてきてしまったのだろう、誰に渡してしまったのだろう。
 マイコの三日月を保ったままの口元とは対照的に瞳は満月であり、その奥は新月のように何もない。

「ねぇ、答えてよ」
「何度傷つけても、傷ついても」
「何度はじまっても、おわっても」
「本当は愛したくて、愛してほしくて泣いてるくせに」

 自分と向き合うことは時に地獄だ。
 現実と向き合うことは時に地獄だ。

 死ぬまで終わらない地獄を永遠と彷徨っている。うまく呼吸もできないままに、脳が押しつぶされそうになりながら、胃が吐き出されそうになりながら、生きている。
 ただただ日常という名の地獄をそれでも生きている。

「自分の気持ちに嘘をつかないで」
「そんなのずるいよ。本当に大切なものから目をそらして嘘なんてつかれたら」
「私が、私たちが頑張ってきた意味がなくなっちゃう」

 ぱつん。弾ける音。瞬く音。人形の腕がビニールを突き破る音。
 その音に反射的に目を瞑った。耳元で泣きそうなのに嬉しそうな誰かの声がする。その声は子供のように今にも泣き出しそうで、けれども大切な秘密の宝物を見せたかのように嬉しそうな声だった。




「……何してたんだっけ」

 フローリングに突っ伏したままスマホを点灯させるとデジタル上のアナログ時計が表示される。

「……………」

 最後に記憶している時間よりも随分と針が回っていた。寝ていたのだろうか。

 立ち上がり、引っ越しをする為にがらんどうとなった部屋を見回す。ほとんどの物を出してしまった空間はやけに広く感じて少し寂しい。隅の方で違和感を感じ、そっと近付いて拾い上げる。
 それは小さな人形だった。可愛らしいキャラクターの女の子たちが笑っている。
こんなの持っていただろうか。そもそも片付けをしている時に気が付かなかったのはどうしてだろう?

 新品のように綺麗な人形に、何故か懐かしさを感じハンカチで包みそっと鞄へ入れる。ひとまずは引越し先へ持っていこう。

 フローリングで横になっていたせいか、体が少し痛い。ひとつ大きく伸びをするとカーテンを外した窓から差し込む光と部屋の空気が楽しそうにじゃれあっていた。

mio
maiko
ak:artificial kidney
artificial kidney:人工腎臓
腎臓:濾過


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