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マッチョ

2015年にNHORHMプロジェクトを始めてから、6年ほど経ちました。現在はコロナ禍でライブができないので、メタル方面では文筆活動ばかりですが、もうジャズ活動のサブ活動としてみたいな段階はとっくに終わって、当たり前のようにジャズとメタルとの生活になっています。
NHORHMの活動を通じて、メタル界、メタル・ミュージシャン、メタル・ファン、メタル媒体など、ジャズ活動だけでは絶対に接点を持たなかったであろう人たちと濃く関わることができていて、考え方や生き方、音楽の感じ方など、本当に学ぶことが多いです。

そこで以前から時々思ってはいましたが、メタルは筋骨隆々のミュージシャンが多く、MANOWARみたいな見た目も心もマッチョの極北みたいなバンドもありますが、意外と精神的・環境的にマッチョなのはジャズの方ではないかなと。

マッチョと調べると、〈男性がもつという「強靱さ、逞しさ、勇敢さ、好戦性」といった性質を基礎とした思想や信条、行動をあらわす言葉〉とWikiに書いてありました。これだけ見れば、メタルこそマッチョだと思うかもしれませんが、表面的にはそうなんですけども、業界での成り上がり方を考えると、ジャズの世界そのものではないですか。

速い曲が弾けるとか、沢山曲を覚えているとか、物理的に速いフレーズが吹けるとか叩けるとか、演奏の物理的な数の多さに加え、毎日どこかで演奏できていること、サイド・ミュージシャンや伴奏者としての仕事が多い、有名なミュージシャンと沢山演奏した、有名なクラブで沢山演奏している、ランクの高いクラブに出演している、CDを何枚出している、etc.、あらゆることを数や物量で判断しているのは、圧倒的にジャズの方だと思います。

〈表現活動〉という以前に、演奏という〈職能〉としての一定以上のクオリティが、プロフェッショナルとして求められるからでしょう。

そういう面でいうと、メタルは職能ではない。
表現活動、しかも世間一般からは「ちょっとどうなの」と思われる可能性もある表現活動なわけで、演奏者本人が〈どういうアーティストでありたいか〉というヴィジョンに対して非常に真面目に活動している方が多いです。
職能として活躍できるには、すでにアーティスト活動(バンド)が有名であることが前提で、その上で外部からの要求に対応できる技術が必要。まずは個性が確立した上で、職能として成り立っています。

私は、クラシック・ピアノ11年 → メタル・リスナー2年 → ジャズ17年 → ジャズ・プレイヤー兼メタル・ファン(メタルのジャズ演奏と文筆)6年目ですが、一見繋がってなさそうですけども、精神的にはジャズとメタルどちらも影響を及ぼし合っていて、だからこそジャズ活動の最初の頃から「プロフィール欄に、師事した先生の名前、過去の共演者(大御所)や、出演歴のある有名店を並べて書くのはしたくないな」と意識していたのだと思います。
他人の名前は、私自身の価値を決めない。メタル・バンドで重要なのは、〈どんな音楽をしようとしているのか〉〈どんな世界を見せてくれるのか〉ですから、本人のヴィジョンの提示が何よりも大事だし、他者の名前を持ち出して自分の評価とするのは、メタル的にとても格好が悪い。

でもジャズ的にマッチョでありたい時期もあって、速い曲をコールされたら完璧に打ち返したかったし、コールされる曲は当然覚えていたかったし、ジャズ・ミュージシャンなら「できるかできないか」の尺度で動く時期はあった方がいいと、今もプロを目指す生徒には言っています。

私が自分の今の進路を決めたきっかけは、他でもないエンリコ・ピエラヌンツィの音楽との出会いでしたが、それは勿論音楽そのものの美しさとクオリティに加え、マッチョな評価軸と違うところで音楽をして、美意識を貫徹しているという、そういう存在で成り立つのだ、と教えてくれたからです。

今までいくつかのインタビューで、『Racconti Mediterranei』との出会いで吹っ切れたとお話ししてきましたが、このアルバムに出会ったのが本当に大きな出来事でした。

まあ普通に聴くと、これがジャズだとは思わないでしょう。しかし、こういう形でジャズができるのだという発見を20代のうちにしておいて良かったなと、今となっては思います。

当時明文化していたわけではないのですが、職能を求めるだけだと音楽している意味がないんじゃないかなと、そんな実感があったんだと思います。逆に、職能を求めていた時は音楽で身を立てることに必死で、本当に好きなもの、やりたいことが見つかっていなかっただけで、本当にやりたいものを見つけた時に何かができるために、職能を上げていたのではないかと思えるんですよ。
マッチョな世界でもある程度勝負の土俵に上れて、かつ自分の理想に近づくための表現活動をするのは、かなりのポテンシャルの高さを要求されることでもあります。しんどいです。

今は、3月末のトリオのレコーディングのために自分の音楽を磨いていく期間で、曲を作ったり自分の曲の練習をメインにしていますが、ソロの内容自体は、職能としてのジャズの理解度を上げないといけません。こちらは短期的に習得することはまず不可能で、常日頃の練習と、練習と同じぐらいの時間や精度を持ってジャズを聴くことが必要です。ある程度マッチョな練習をしていないと表現にもならないのが、ジャズの厳しいところでもあります。

ただ、普段の活動はあまりマッチョにしているとしんどい。徐々に、数よりは質で演奏活動したいという感じになって、30代後半は少しずつ外での演奏をコントロールするようになりました。結婚したのも大きかったと思います。夫がマッチョとは程遠い演奏をする人なので、影響されているところもあります。

最近、同世代より上のミュージシャンと話していると、「ジャム・セッションで昔みたいに速い曲をやらなくなった」という話を聞きます。昔からのジャズファンからしたら「最近の若者は元気がない」と愚痴を言っちゃうような印象を受けるかもしれませんが、これは世界的に聴かれるジャズが多様になったことと、テクスチャを大事にするジャズが2000年代以降沢山入ってきて、ジャズ的な格好良さの価値観が変わったことが大きいと思います。スタンダードで速いものが吹けるより、丁寧に良いトーンで良い曲を演奏している方が格好良くなった。ある意味、マッチョから進んで成熟したとも言えると思います。

私がジャズを始めたのは90年代後半ですが、今思うと、しばらくは超マッチョな世界だったですね。
ちょっと頑張って名前が出てくると、女性の私は男性から「あの人はおっさんだから」と言われることが多くなりました。これは今フェミニズムを学んでいる身で考えると、職能が上がって酒が飲めて下ネタにも顔色変えず付き合えると「おっさん」という名誉男性の称号を与えられていたのだと思います。私もコミュニティに認められると悪い気はしなかったけど、都合の良い時だけ女、都合の良い時だけおっさんと扱われていたなあと。別にだから誰かを糾弾するわけではないですし、当時は全体がそういう感じで、女性のマッチョ=おっさんという言い方をしていましたよね。これ、今はもうほとんど無くなった事だと思いますが、どうでしょう?

今、生徒を見ていると本当に気が楽というか、仕事がいっぱいあった方がいいとか、沢山のお店に出たいとか、女の子ならおっさん化しないといけない感じとか、あまりそういうマッチョな空気がないですよね。少なくとも私の生徒は、かつて自分が体験したマッチョなことから随分と解放されている。
それを見ていると、なんというか、気付かないうちに良い方向に変わっているんだなあと思います。

私が活動している20年だけで随分変化したと思いますが、2020年はコロナでガラガラポン状態なので、またこれから様々なことが変わっていくんだろうなと思いますし、自分自身もアップデートしていけたらと思います。

〈私の中のマッチョは全くメタル由来ではない〉という事に思い至ったので、思いつくままに書きました。


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