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命の値

 インドで出会った女の子、スハイマの話。たまに、昔あったことをふと、思い出す。思い出した時が一番の書きどき。

 スハイマはインド・ケーララ州のコチというところに住む20代女の子。コチにある美術大学に通っている。絵を書く事、自然を写真に撮る事が好き。彼女のスケッチブックには、自然界のありとあらゆるものがいきいきと描き込まれていた。彼女は私に、植物の名前や木の実の名前、自然との関わり方を教えてくれた。私たちは絵を描く合間を縫って、よくアトリエの外に散歩に出ていた。茶畑の広がる田舎道を歩いて、牛や鶏、やぎを見つけた。変な果物を発見したり、不思議な鳥の声に耳を澄ませた。丘の上までに登って行って、目を閉じ、手を広げ、鳥になったつもりで全身で風を感じた。

 彼女はヒンドゥー教が主流のインドではちょっと特殊なイスラム教徒だった。ヒンドゥー教徒がインドの全体の8割を占めているとしたら、イスラム教徒は1割くらい。彼女はいつも顔周りにベールを巻いていた。美しい宮殿の絵の模様の布を持ってきていて、時間になるとそれをベッドの上に敷いて、聖地メッカの方向に向かってお祈りをしていた。

 その日もいつものように、スハイマと茶畑を散歩していると、1人の老婆が私のところにやってきた。私に、何かをマリアラム語(インドのケーララ地方で話されている言葉)で必死で話している。スハイマの翻訳では、「私の娘が癌になってしまって病院に入院しているけど、お金がないので治療する事ができない。どうか治療のためのお金を寄付してください。」というものだった。スハイマは老婆の話の内容を必死に私に説明し、私に判断を仰ぐ。私は、その話が本当かどうかわからなかった。デリーやバラナシなどの北インドの都市では、あの手この手を使って外国人旅行客からお金をせびり取ろうとするインド人を山のように見てきたし、騙されて被害にもあった。でも、その額は日本人から見たら大した金額ではない。それに、インド人が私のような外国人に群がるのも、仕方のないことだと思っていた。なぜなら、インドで真面目に働くよりも、外国人相手に商売をした方がずっと儲かるからだ。彼らにだって養わなければならない家族がいる。日本人に生まれてしまったからには、多少他のインド人とは違う値段をふっかけられたり、他と待遇がよかったり悪かったりしても、それに甘んじるのがこの問題に対処する方法だと学んでいた。ちょうど私はその時、財布をアトリエのあるレジデンス施設の部屋に置いてきていて、持っていなかった。そのことを説明すると、老婆はあなたの住んでいる場所はわかっているから、あとでそこに取りに行きます。と言う。

 レジデンス施設に戻って、一連の出来事をレジデンス施設のスタッフであるプロサー(彼はマリアラム語と簡単な英語しか話せない)にスハイマから説明してもらった。私は彼女らが何を言っているのかわからなかったけれども、結構な長い間、プロサーが何かを熱心に話しているのを、私は少し離れた場所で絵を描きながら聞いていた。

 その日の夕暮れ時、私が部屋で休んでいるとスハイマがやって来た。そしてプロサーが話していたことを教えてくれた。あのおばあちゃんが言っていたことは本当で、彼女の娘は癌で病院に入院していること、彼女の家は貧乏で治療費が払えないので、村中が彼女に協力してお金を出し合い、治療を受けていること。プロサーも、かなりの額のお金を援助したこと。私がお金を出すことについては、レジデンスのオーナーのシリルが絶対に許さない、渡さなくていい、という事だった。そのことを話している途中から、スハイマの目からは涙がポロポロとこぼれ落ちていた。その理由を、私は知っていた。彼女のお母さんも、彼女が幼い時に癌でなくなっていたのだった。プロサーは、あの老婆が私が外国人だからお金を持っていると思って近づいてきたことに対して、腹を立てていたようだ。だから、プロサーの話を聞いているときのスハイマは少しも悲しそうなそぶりは見せなかった。けれどもそれを私に説明してみると、その構図はスハイマにとって残酷なものに思えたのかもしれなかった。

 スハイマの家族は、亡くなった母親の他に父と姉がいる。父はパキスタンに出稼ぎに行っていて、インドにはいない。このことは、イスラム教とヒンドゥー教の宗教間対立が関係しているのではないかと、私は勝手に推測している。インドではイスラム教徒は、イラクなどの他の土地で起こったイスラム教徒によるテロの影響で警戒心を持たれ、一部のヒンドゥー教徒によって差別を受ける事がある。ガンジーが生きていた時代に激しさを増していたその対立は、イスラム教徒をパキスタンの地に追いやった。現在は和解して共生しているが、水面下での争いは続き、2002年にも1000人のムスリムが殺害される事件がインドでは起こっている。このイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立には、元々はイギリスの政治的策動が関係しているとも言われる。(現在では生活に支障をきたすような差別はないことを強調しておく。元々ヒンドゥー教は他の宗教に寛容な思想を持っている。) そのため、彼女の両親はインドにはいないが、美術大学の友達とそのお母さんと一緒に住んでいて、友達のお母さんはスハイマを我が子のように可愛がっている。仲の良いきれいなお姉さんはインドの、スハイマとは少し離れた場所に住んでいる。

 昨年の12月に、facebookにイギリスに旅行に行ったときの写真を投稿すると、スハイマから「イギリス行ったの?」とメッセージが届いた。私は「行ってきた。博物館では、イギリスがインドから奪ったとても豪華な宝石を見たよ。」「美術館は確かに素晴らしいコレクションだった。」と答える。スハイマはいいね!と言った後、唐突に「私、こんど結婚するんだ」という。普通はここで、「おめでとう!よかったね!」と言うところなんだろうけど、私は、私の知っているあのスハイマが、普通の女の子のように男の人と恋愛して、家庭に入ることを望んで結婚するなど考えられなかった。私は咄嗟に問いただした「本当にスハイマはそれでいいの?」「相手はいい人なの?」彼女からは、「うん、小さい時から知ってる人。」「いい人だよ」と短い返事が返ってきた。周りの大人達に勧められて結婚したのかもしれない。信仰による理由かもしれない。相手の男性がスハイマに惚れ込んでプロポーズしたのかもしれない。私はどちらでもいいと思った。なぜなら彼女がその後送ってくれた写真には、とても優しそうな男性と、イスラムの美しい花嫁衣装に身を包んだ、とびきり笑顔のスハイマが写っていたのだから。

 彼女はインドの外に出て見たいと思っている。でもほとんどのインド人がそうであるように、経済的な理由から、彼女は一度もインドを出た事がない。だから、私は渡航費と滞在費の助成のあるレジデンスを見つけると、彼女や他のインドの友人に紹介する。でもそのようなレジデンスはとても競争が厳しく、すでに実績があり名前も知られているようなアーティストが選ばれたりしている。「私が日本に行くなんて、それは夢のような話だ」と、あるインド人の友達は言った。あるインドの宝石屋の店主には、なぜそんな流れになったのか、父親の月の収入を教えてくれと言われ、電卓を使って教えたところ(父の収入は日本の50代男性の平均収入額程度である)彼は酷く驚いた表情を見せ、急に私に対してよそよそしくなった。そして、それまでのように陽気な会話はできなくなった。私は海外でそのような格差を自覚させられるたびに、自分が日本に生まれたこと、そして海外のいくつかの土地を歩いて見て、聞いてきた事で、何を感じ、それをどう思っているのか、そしてこの先、その事で何ができるのかという事を自問するのだ。

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