イシナガキクエを巡る35の謎(その5)
【注意】本稿は『イシナガキクエを探しています』全4話の視聴を前提で書いています。ネタバレにご注意ください
【補足資料】
『イシナガキクエを探しています』年表
『イシナガキクエを探しています』語集
[Q.29] 米原実次は何故、番組の完成を待たずに自殺をしたのか?
[A.29] 番組内容がドキュメンタリー番組になるのを阻止するために、自殺の予定を早めた。
まず、本考察は米原実次の最期は【自殺】、すなわち【他殺ではない】ものとして進めていく。
「本当に自殺だったのか?」と問われると、考察者は他殺と思い込みがち、延いては自殺の線を捨てがちである。しかし本稿でのこれまでの考察の流れから、他殺という線がそもそも考えづらい。他殺説支持者の多くが■■■■がその犯人としているが、その■■■■が何故あのタイミングで、実次をわざわざ焼身自殺に見せかけて殺さなくてはならなかったのか?……という部分まできっちり踏み込んでいない(■■■■の規模を考えれば、拉致して別の場所で人知れず殺害→そのまま失踪という形にした方がよほど現実的で機能的と思うのだが)。
実次が自殺した理由や心境については、とりあえずは置いておく。今ここで考察したいのは、実次が自殺を図ったタイミングについてである。何故、彼は番組が完成&放送される前に自死する選択を取ったのか?
……こう考えてみよう。
もし実次が自殺していなかったら、その後に何が起こったのだろうか。
本編の情報から確実に判るのは、『イシナガキクエを探しています』という番組の内容が変わっていたという事だ。
本編④で番組は当初、【55年に渡って一人の女性を探し続ける老人・米原実次のひたむきな姿を追ったドキュメンタリー番組】になるはずだったと明言されている。しかし、取材中に実次が自殺したのを受け、その遺志を継ぐという形で内容を変更したという背景がある。つまり、実次の死無くして【特別公開捜索番組】としての『イシナガキクエを探しています』は存在し得なかったことになる。
だとしたら実次は、番組の内容を変更させるために取材の最中を選んで自殺した可能性があるのではないか。
実次は恐らく取材を受ける前の時点で、自分にキクエを探せる時間が僅かしか残されていない事を自覚していた。そう悟らせたのは自身の肉体の衰えであり、同時に認知の衰えでもあった(本編①で同じ近隣住民に何度もチラシを渡していたことを匂わせる場面がある)。
実次には身寄りがいない。かつての自分とクシエを知る者も、親しい近隣住民も、そして自分の意思を継ぐ者もいない。もしこれ以上老いさらばえ、無自覚の内に認知が完全に侵されたら、何かを正しく選択、決断、実行することが出来なくなるだろう。そして自分が止まった時が、キクエを捜す者――すなわち呪詛を抑える者がいなくなる時であることも実次は理解していた。
そんな折に、自分を取材したいと申し出るテレビ局のスタッフが現れた。もし彼らを(87年の『THE ワイドSHOW』のように)捜索者として動かすことが出来れば、あるいは彼らを介して観測と捜索の手を増やすことが出来れば、仮に自分が死んだとしてもキクエの捜索は継続される。そう考えた実次は、取材を受け入れることにした。
しかしスタッフは、番組を単発のドキュメンタリーとして制作するのだという。それは実次にとって想定外であり、あまりに好ましくない事態だった。これでは表面をなぞっただけの記録映像に留まってしまう。スタッフを、延いては数多の視聴者を自身の後継にする計画が破綻してしまう。
そして年明け、スタッフが遠慮がちに「キクエは実在しないのではないか」と疑いを口にしたことで、実次の腹は決まった。
「……信用してもいいんですよね、あなたたちを」
実次はその言葉と共に、それまで無いと言い張った《イシナガキクエの写真》をスタッフに見せ、これを託した。
そして二週間後、自ら命を絶った。
残されたスタッフは、写真と共に託された信頼――キクエの捜索を継続することを、実次の死後も成さねばならなくなった。
こうして『イシナガキクエを探しています』はドキュメンタリー番組から公開捜索番組として生放送された。
実次は文字通り、命を賭して番組の内容を変えさせたのである。
ただし、一つだけ留意して欲しい点がある。
恐らく実次は、テレビ局の取材とは関係無しに、遅かれ早かれ焼身自殺を実行するつもりだったのだろう(理由に関しては後述)。つまり【番組の内容を変更させる】ためだけに自殺をしたのではなく、あくまで予定外の目的を遂行するために計画を前倒しにしただけ、という話である。
[Q.30] 『イシナガキクエを探しています』の生放送中に集まった目撃情報に、有益性はあったのか?
[A.30] キクエを生身の人間として扱い、紹介してしまったため、集まった情報の殆どが無意味な物だった。
死去した米原実次の遺志を継ぐ形で、番組スタッフは特別公開捜索番組『イシナガキクエを探しています』の生放送に漕ぎつけた。彼らは実次の願い通り、妄想の産物ではなく実在の行方不明者としてイシナガキクエを取り上げた。
しかし番組はイシナガキクエという存在を、実在を前提とした【生身の人間】として紹介、捜索してしまった。故にコメンテーターは的外れな考察を述べるに終始し、20人近くに及ぶオペレーターを配備して募った8000件にも及ぶ目撃情報も同様に、《尋ね人のチラシ》のプロフィールと《イシナガキクエの写真》を元にAIで再現した顔を、赤の他人と照合した結果の無意味な物が大半だった。
それでも、キラフの《山奥の廃墟》潜入動画、上田怜歩奈が拾った《古びたビデオカメラ》の映像、そして匿名視聴者による《87年のVHS》といった、核心に辿り着く鍵となるフッテージを集めることができたのだから、放送の意義は十二分にあったと言えよう。
そんな中で注目に値する情報があるとすれば、霊媒を自称する匿名の人物による霊視の結果であろうか。奇しくも稲垣乙と同様に【祓】を生業としているその人物が霊視を試みたところ、キクエは「閉鎖的で負のエネルギーを感じさせる施設」に隔離され「すでに亡くなっている」と結論付けた。その人物が稲垣クシエとイシナガキクエ、どちらの現在を視たのかは判らない。しかし前述の施.設を【クシエが霊媒の実践を行っていた部屋】【処理チームが代理人の処置に用いた作業小屋】【《処理》の過程で埋葬された土中ないし水中】【骨壺】……いずれと見ても一応の辻褄は合う。
[Q.31] 《山奥の廃墟》《廃墟裏の小屋》とは何か?
[A.31] イシナガキクエ(稲垣クシエ)に関する物を隠匿、保管するために米原実次が2010年前後に購入した空き家。
心霊系YouTuberのキラフが番組に映像を提供したことで、存在が明らかになったのが《山奥の廃墟》である。約15年前から空き家になっているとされるその一軒家は、【人影が出入りしている】【大きな呻き声のようなものが聴こえる】といった怪現象が目撃されており、知る人ぞ知る心霊スポットと紹介されている。しかしその割には荒ら.されている痕跡は皆無に等しく、邸内はがらんとこそしてはいるが、日用品や家具などかつての生活の痕跡が僅かだが残されていた。
そしてこの廃墟には、3つの特異なアイテムが残されていた。
①スピリチュアリズムに関する古書
邸内の書斎と思しき一画には、幾つかの古書が置き去りにされたように並んでいた。その中でもタイトルを確認できるのは、以下の三つである。
いずれも心霊主義や霊能力に関する書籍であり、中でも『新霊交思想の研究』に至っては1971年初版、つまり稲垣クシエの生前には存在しなかった物である。これらはクシエの死後、米原実次が独自に心霊を研究しようと買い集めた書籍なのではないだろうか。霊視のハウツー本でもある『透視靈能秘傳書』も並んでいる事から、自身もキクエの姿を視認できるように霊能を開発する目的があったのかもしれない(その実現は叶わなかったようだが)。
②《イシナガキクエの写真》
心霊写真の中には、それ自体が良からぬ霊障を齎す呪物と化している物が数多ある。
写真に写る計35体のキクエは、いずれも無害だった頃の姿である。とは言え、それらは紛れもない【本物】の心霊写真であり、《処置》の際にも使用された代物である。それが35(+5)枚という束になっているのだから、霊現象を発現させるだけの力を持っていたとしても不思議ではあるまい。
③《稲垣クシエの骨壺》
人間の遺骨に霊力や呪力が宿るという考えは世界中に存在する……いや、むしろ無い方がないと言うべきかもしれない。あえてここでは事例を挙げずに置くが、今でも日本では火葬後の骨を神と同じ【柱】という単位で数えることからも、それが伺える。
強大な霊能者であり、怪異イシナガキクエの源である稲垣クシエの遺骨が、ただの炭素とカルシウムの塊とは考えにくいだろう。
いずれも米原実次(と稲垣クシエ)に強く結びつく品であり、②と③に関しては呪物と言っても良い。
そして後の番組スタッフの調査で、この廃墟が米原実次の名義で登記されていたことが判明している。
ではこの家は、[Q.28]で触れたように彼がかつて住んでいた場所なのだろうか?
恐らく、それは否であろう。本編④では米原邸と廃墟の距離が3km程度であることが明言されている。近くはないが遠くもない……人口が密集している都市部ならいざしらず、民家もまばらな田舎であれば、住民に顔を知られてもおかしくない微妙な距離である。
.稲垣乙と米原実次。霊障を齎すような強力な呪物を管理するのであれば、適任なのは前者であろう。だから当初は、稲垣乙が写真と遺骨を所有し、霊障が発現せぬように管理をしていたはずである。
しかし、2010年頃に稲垣乙が死去したことで、米原実次がそれらを引き継がなくてはならなくなった。しつこいようだが、実次には霊能がない。骨壺と写真、両方を手元に置いたらそれこそ自宅が周辺含めて心霊スポットになりかねないのである。
そしてまた、米原実次はそれらを【隠す】必要にも迫られていた(理由に関しては[Q.32]「Q.33」を参照)。過去に住んでいた家屋、すなわち自分と紐付けすることのできる場所は、嗅ぎつけられる可能性が高い。
そんな折、ある山奥にぽつんと建つ民家がタイミング良く空き家になったのを知る。自宅から約3㎞……離れてこそいるが定期的に様子を見ることのできる、近くはないが遠くもない絶妙な距離。その物件を実次は、渡りに船とばかりに購入した。
《キクエの写真》は全て、前の住人が残していった小さな抽斗に隠した。かつて研究のために購入した……しかし大して役には立たなかった心霊関連の書籍も手元には残さず、そこの書斎に置くことにした。そして、特に注意しなくてはいけない《骨壺》は、裏手に建つ小屋に隔離した。内側から幾枚もの護符を貼ったのは、遺灰の霊障が外に盛れるのを少しでも防ぐためであろう(しかし実次は素人なので、無節操なジャンルの護符を選んで滅茶苦茶に貼っていたようだ)。
斯くして《山奥の廃墟》が生まれた。心霊スポットと噂された所以である霊障の数々は、隠された《写真》と《遺骨》に因る物と思えば納得が行く。邸内に残されていた幾つかの日用品は、米原とも稲垣とも所縁のない以前の住人の物だろう(探索時の映像を見ると、実次が使わない老人用の杖が転がっている)。
[Q.32] ■■■■とは何か?
[A.32] 稲垣クシエ≒イシナガキクエから発生した呪物を、何らかの目的で回収(あるいは奪取)する存在。 稲垣乙と同等のスキル(祓と占術、呪物の管理など)を有すが、その実態は未だ不明瞭。
謎の存在・■■■■が記された《乙に宛てた手紙》に関しては[Q.22]で触れたが、この手紙には前文から続く奇妙な一行が記されている。
【もう、そこにはありませんでした】
【いません】ではなく【ありません】と表記されている以上、人ではなく物が失われたことを意味しているのだろう。しかし本編では(何故か)手紙の全文が明かされないため、具体的に何が失われたのかは判らない。
米原実次と稲垣乙が秘密裏に所有し、なおかつ実次の死の前後に彼の手元には無かった【物】。何者かが嗅ぎ回り、下調べの末に奪取の機会を伺っていた【物】。それは即ち、埋葬されて屍蝋化/呪物化したキクエの処置体の事ではないだろうか。
それが、35体ある処置体の内のどれかは定かではない。あるいは、書簡が認められた時点で複数の処置体が失われていたのかもしれない。
そして本編④では《乙に宛てた手紙》が紹介された直後、非常に思わせぶりなカットが挿入される。
池に侵入した男たち→米原邸の侵入者→廃墟の抽斗から失われた写真→再び《乙に宛てた手紙》……これらの情報の連続が示唆するのが、【全てが連なり、関わり合っている】事だとしたら――。
つまり、【キクエの埋葬地を撮影させた者】【処置体を奪った者】【写真を奪った者】の背後にいたのは■■■■だったという事になる。もしそうだとしたら、何と残酷で無慈悲な事実だろう。米原実次は、自分たちが半生を費やして鎮めたキクエの封印を破壊し、家族と家系を滅ぼした元凶に《処置》の代行を任せようとしていたという話になるのだ(※)。とは言え、■■■■が稲垣乙のように信頼の置ける存在ではない、という事は実次も薄々と勘付いていたようである。
■■■■が最終的に何体の処置体を掘り返したのかは定かではない。最悪、キクエ復活後の処置体(実次の実娘と、それ以降の代理人)も含めて根こそぎ奪われた可能性もある。しかし、処置体が次々と盗掘される事態に、実次は為す術がなかったはずだ。処置体が違法に入手、埋葬した死体である以上、司法や部外者を頼るという選択肢は取れないのである。
それでも■■■■に関しては依然、謎が多い。結局、組織か個人かは判らず終いであり、その目的も察しが付かない。
何のためにキクエ由来の呪物を必要としていたのか? そこに介在するのは思想か教義か、あるいは私情か。はたまた営利か、さもなくば蒐集か……?
いずれにせよ【どれだけの金と時間、労力と犠牲を払ってでも手に入れる】という異常な執念が■■■■の根底にあることだけは確かである。
※ だとすれば、■■■■は処置の代行という名目で上記の呪物を管理下に置くため、米原実次に接近した――延いては、その口実を作るためにキクエ⑰の埋葬地を穢し、結界を破壊したという考え方もできる。
[Q.33] 米原実次の死後、米原邸に侵入したのは何者だったのか?
[A.33] 《キクエの写真》を奪取するために侵入した■■■■の一団。
■■■■は処置体だけでは飽き足らず、同じく強力な呪物であるキクエの写真とクシエの遺骨も手中に収めようとしていた。しかし共に実次が手元で管理している手前、迂闊に手を出すことは出来なかったようである(※)。
事態は2024年2月10日に大きく動く。
米原実次の死亡をニュースが報じたのだ。これを知った■■■■は、好機とばかりに数名を深夜の米原邸に送り込み、残る呪物の奪取を試みる。しかし失敗に終わった。何故なら、実次が写真と遺骨を自宅に保管していると勘違いしていたからである(この光景を近隣住民が隠し撮りしたのが、本編①に登場する映像である)。実次が唯一手元に残していた《イシナガキクエの写真》も番組スタッフに預けられていたので、■■■■は実次の思惑通り、何の成果も得られず米原邸を後にしたことになる。
しかし5月10日、本編②が放送されたことで実次の目論見が思わぬ形で崩れる。番組に提供&公開されたキラフの撮影動画から、写真が《山奥の廃墟》に隠されていることが図らずも明るみに出てしまったのである。これを頼りに後日、■■■■は計40枚の写真の奪取に成功。本編③放送後に番組スタッフが探索した際には抽斗の中は空っぽだった……という流れである。
それでも、番組スタッフは廃墟の裏手に建つ小屋の中で、一つの骨壺を発見する。
(※)結果的に■■■■はキクエに纏わる呪物のほぼ全てを手に入れるまでに、30年近い歳月を掛けたことになる。つまり■■■■にとってそれらの入手は緊急を要すほどの物ではなかった、延いてはキクエの呪物【だけ】が目的ではなかった……という事になるのだろうか?
[Q.34] 《廃墟裏の小屋》にあった骨壺は、何故焼け焦げて転がっていたのか?
[A.34] 米原実次が骨壺を持ち出し、共に焼身自殺を図ったから。その後、霊障による消失を経て《廃墟裏の小屋》へ転移(アポーツ)、その際の衝撃で破損した。
《廃墟裏の小屋》をスタッフが発見してからの展開は『イシナガキクエを探しています』のクライマックスであり、視聴者の心にうら悲しさと切なさを刻む名シーンでもある。
陽に焼けて退色した畳の上に転がる骨壺、散らばる破片と灰に交じって、折り畳まれた一葉の古写真。それを見つけたスタッフが広げてみると、そこには――。この写真は言わずもがな、若き日の米原実次と生前の稲垣クシエを写した一葉である。【自撮り】などという言葉が無かったであろう時代に、三面鏡を介して自分たちを撮影したのだろう(※)。そして灰は他でもない稲垣クシエの遺骨であり、それを納めて隠し続けていたのが今や半壊した骨壺であることは想像に難くない。
しかしこの骨壺、よく見ると不自然な状態にある。骨壺とは火葬した骨を納める器であって、それ自体が焼けるという事はまず考えられない。ならば何故、発見された稲垣クシエの骨壺はまるで炎にくべられたように煤けているのだろうか。
本編中で【炎】が想起される出来事と言えばただ一つ、米原実次の焼身自殺である。番組放送の時点で実次が故人であることは本編①の最序盤で明示されていたが、そのショッキングな死因が視聴者に明かされたのは本編③のラストだ。その理由については次問[Q.35]で存分に言及するとして、ここで考察したいのは【実次の焼身自殺】と【焼けた稲垣クシエの骨壺】、二つの事象がどう結び付くかについてである。
小屋と畳の状態を見るに、あの場所で壺が燃えていない事は確かである。だとすれば、壺は深夜の田畑で実次と共に灯油を被り、炎に包まれて燃えたということになる。では、壺はどうやって田畑から廃墟裏の小屋へと移動したのだろうか。まさか、骨壺が独りでに宙を飛んで行ったというのだろうか?
……その「まさか」に近いのかもしれない。
[Q.17]の事例と同様に遺骨が強力な霊障を発現させた結果、骨壺がアポーツしたと考えれば以下の三つの事柄に説明が付く。
まず一つは前述の通り、骨壺の移動について。
もう一つは骨壺の破損について。小屋内の中空に出現→そのまま落下したために、あのような惨状になったのではないか。
そして最後の一つは、《廃墟裏の小屋》で写真を奪取した■■■■が何故か遺骨を無視した点についてだ。《古びたビデオカメラ》同様に骨壺が消失したままの状態にあったとしたら、■■■■はそもそも骨壺を発見できなかったはずである。
つまり田畑で実次と共に燃えた骨壺は、アポーツによって時空を超え、元々隠されていた《廃墟裏の小屋》に帰還した、ということなる。
米原実次はあの夜、恋人の骨を抱いたまま焼身自殺を図ったのだ。
だが、何故?
(※)本編①で実次が番組スタッフに見せた《米原家のアルバム》の最初のページにあった、横長の写真1葉分の不自然な空欄。そこに元々この写真が貼られていたとしたら、やはり稲垣クシエは元来、実次の家族=妻になる予定だったのではないかと推測できる。そして同時に、その実現の直前で落命したという事も……。
[Q.35] 米原実次は何故、焼身自殺をしたのか?
[A.35] 下記参照。
実次は何故、数多ある自殺手段の中から【焼身】を選んだのだろうか。
飛び降りでも飛び込みでもなく、首吊りでも入水でも服毒でも中毒でもなく、最も苦しく惨い方法で人生の幕を下ろしたのか?
焼身自殺は数多ある自殺手段の中でもとりわけメッセージ性の強い物であり、自殺者の確固たる意思、決意がなければ成立しない。
最もよく知られるのが【抗議】の意味である。政治、宗教、社会情勢といったマクロな問題から個人的な怨恨といったミクロな問題まで、自身の命を犠牲にして抗議の意――強い怒りや不満を衆目に刻み付け、爪痕を残す手段としての自殺だ。1963年、政権による仏教徒弾圧に抗議した僧侶【ティック・クアン・ドック】の焼身自殺は、その後に激化したベトナム戦争も含めて、強烈なイメージを全世界に焼き付けた。炎に包まれてなお座禅を崩すことのない彼の姿は焼身自殺のアイコンと化し、BONZO(凡僧)という言葉が焼身自殺を指す隠語として用いられる場合もあるほどである(なお、英語で焼身自殺は【Self-immolation(自らを生贄にする行為)】と訳す)。
しかし、どうにもしっくり来ない。[Q.01]から[Q.34]まで積み重ねてきた考察(ストーリー)の中で、命を賭してまで【抗議】する理由と相手、何より実次の怒りが見つからない。全ての元凶とも言える■■■■への怒りとも捉えることができるが、焼身自殺という抗議は、目撃する第三者の存在と相応のステージ、抗議内容の周知があってこそ成り立つ物と言える。偶然目撃し、しかもゴミ焼きと勘違いしていた心霊YouTuber一人では、目撃者と呼ぶにはあまりに心許ない。
では、抗議以外の意味を【焼身】という行為に求めてみよう。
宗派や思想を問わず、万国に共通する【炎】のイメージがあるとすれば、罪人を責め苛む業火であろう。
「最後の審判が訪れるまでは肉体を保全しなくてはならない」という観念から、自他&生死問わず人体を焼くことを強くタブー視してきたキリスト教では、それを逆手に取る形で魔女狩りや異端審問の際に【火刑】を頻繁に用いた。心身を焼き壊すことで現世から消滅させ、異端者を救済の埒外に放り出すという寸法だ。日本でも江戸時代、最重罪である放火の罪に対して適用された。戯曲にも描かれた【八百屋お七】の一件が有名だろう。
公開処刑が大衆娯楽だった頃でも、火刑は特に見せしめ=犯罪抑止の意味合いが強い、惨たらしい刑罰だった。煙による窒息死ないし脱水による衰弱死、さもなくばショック死に至るまでに、想像を絶する苦痛を長時間に渡って受刑者に与え続ける。故に刑吏が温情として、受刑者をあらかじめ絞殺するなどしてから執行に臨む場合もあったほどである。
そして炎は、罪人が死してなお消えることはない。宗教や思想を問わず、【地獄】という場所では炎が永劫に燃え盛り、堕ちた者をいたぶり尽くす。
米原実次は、その業火を求めていたのではないか。
生前の実次が犯した最大の罪、それは全く関係のない自分の家族をキクエとの戦いに巻き込み、むざむざ死なせた事だろう。挙句、実次は実娘を代理人に立て、最終的に米原家の滅亡を招いたのである([Q.19]~[Q.21]参照)。
かつての恋人に拘泥しなければ、そもそも悲劇は起こらなかった……仏壇に瞑目合掌する実次の胸には、悔恨と贖罪が常に燻っていたのではないか。そして咎人である自分に安らかで緩やかな死は相応しくない。生きながら炎にでも焼かれなければ、死なせた家族と先祖に顔向け出来ない――そう考えていたのかもしれない。
しかし、それだけでは不十分だ。
妻と子を死なせた罪を焼く業火の中で、かつての恋人の骨を抱く……この矛盾した行為の説明が付かない。
もう一つの【炎】の役割を解くには、米原実次という男の人生に今一度、思いを馳せねならない。
「そうまでして、会いたいんだよ」
番組スタッフに語った米原実次は、確かに生涯に渡ってイシナガキクエを探し続けた。しかし彼が実際に求めていたのはキクエではなく、その源である稲垣クシエとの邂逅だった。
55年前のあの日から、実次は何としてでも亡き恋人に逢おうと試みた。独学で霊能を開発しようと書籍を読み漁りもしたが、滑稽で無益な結果に終わった。そして長きに渡る《処置》と《処理》の工程の中で、彼が写真と代理人を通して会ったのは、恋人のアナグラムから名付けた魂の残像ばかりだった。彼の長く波乱に満ちた人生において、願いはあらゆる犠牲を払っても叶わなかったのだ。
……そして今。
老いと孤独に静かに蝕まれる日々の中で、それでも実次が見出せる希望があるとしたら、恋人との来世での邂逅しか残されていなかったのではないか。
そして、それを叶えるために実次は【焼身】という手段を取ったのではないか。
ヒンドゥー教と仏教には輪廻転生の思想がある。そして死後の霊魂が現世と肉体への未練を絶ち、煙と共に天上界に昇り、来世に転生できるように亡骸を荼毘に付す。炎にはその力があると見做されていた。
そして【捨身】――自らの肉体を差し出すことで三宝を供養、あるいは他者を救う自己犠牲の行為に、焼身は頻繁に用いられた。前世の頃に1200年焼身して仏を供養した薬王菩薩、飢えた老人を助けるために自ら炎に飛び込んだ月兎のエピソードが有名である。
実次の行為に仏教的な思想がどれほどあったかは定かではない。しかし、彼が炎に救済と希望を見出していたのは確かだ。
恋人の遺灰と在りし日の二人の写真を納めた骨壺――稲垣クシエの純粋な遺物を抱きしめたまま焼身したのが、その根拠と言えよう。
贖罪のための死、転生のための死。しかし人間の命は、一度しか殉ずることができない。故に実次は、焼身自殺を選んだ。
そして、それを決行するタイミングは、予期せぬ形で訪れる事になる。
2024年2月。極寒の闇の中で実次が灯したのは、罪を責める業火であり救いに導く神火でもあった。
血と肉を焦がされながら、実次は今際の際に何を見たのだろうか。
その向こうにあったのは来世か、地獄か、それとも虚無か。
家族への贖罪は、恋人との邂逅は果たせたのか。
答えを考察できる材料は未だ、ない。
(つづく?)
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