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史上最強のアマ横綱

初場所に幕下15枚目格付け出しでデビューして1場所で関取昇進、新十両の春場所でも10勝を挙げた落合、夏場所は超スピードでの幕内昇進をかけることになります。注目ですね。

その夏場所にもう1人、落合を上回る幕下10枚目格付け出しでデビューする注目株がいます。一昨年、昨年とアマ横綱を連覇し、昨年は国体横綱をも獲得して、アマ横綱プラス1冠で幕下付け出しの最高位の資格を得た日体大の中村泰輝です。

「中村」は同じ名の年寄名跡があるので、元・稀勢の里の二所ノ関親方は中村泰輝に「大の里」の四股名をつけました。いまからデビューが楽しみですね。

落合は実業団横綱でしたが、では中村いや大の里が獲得したアマ横綱とはどんなタイトルなのでしょうか。

アマ横綱(アマチュア横綱)は、日本相撲連盟が主催する全日本相撲選手権大会の優勝者に贈られる称号。学生横綱、実業団横綱、国体横綱とともにアマチュア相撲の国内4大タイトルのひとつです。

学生横綱が大学生の、実業団横綱が社会人の大会であるのに対し、アマ横綱はその双方が参加可能な大会なので、もっとも権威があるとされています。前記した大の里が得た幕下10枚目格付け出しの資格は国内4大タイトルのうち二冠獲得が必要ですが、「アマ横綱のほかに学生横綱、実業団横綱、国体横綱のいずれか」を獲得と規定されています。別格なんすね。

アマ横綱を決める全日本相撲選手権は、昭和27年(1952年)から始まっていますから、その歴史は70年余。大正時代から始まっている学生横綱にくらべるとだいぶん新しいですね。実業団横綱(昭和34年開始)よりは7年先行しています。大の里は第70代71代のアマ横綱です。

では、初代のアマ横綱は誰かというと、影山信雄(福岡県) 調べてみると、大正13年の生まれで、明治大学相撲部の主将をつとめ、昭和22年には第25代目の学生横綱にもなっています。昭和24年卒業で住友金属工業小倉製鉄所に勤務していたそうです。

影山はプロの大相撲へは行きませんでした。それ以後のアマ横綱たちもまったくプロ入りはしていません。アマ横綱から大相撲への転向は、ずっと下って昭和48年(1973年)の第22代アマ横綱の石川孝志が最初です。お、知ってる名前だぞ。

石川は日本大学3年時にアマ横綱を獲得し、昭和50年春場所に花籠部屋に入門、大ノ海の四股名で幕内まで昇進しました。最高位は前頭4枚目。昭和52年に突然引退してプロレスに転向。本名の石川をリングネームにして全日本プロレスなどで長く活躍し、5回にわたってアジアタッグ王者になっています。あれ、今どうしてるんだっけ?

その後、アマ横綱から大相撲入りするものが増え、計19人にのぼっています。大の里は20人目のアマ横綱出身力士ということになるんですね。

そのアマ横綱出身者のうち、大相撲でも横綱になった者はまだいません。

大関まで昇進したのは、昭和51年と52年のアマ横綱だった長岡末弘(朝潮〔4代目〕)、平成4年の尾曽武人(武双山)、平成8年と9年の田宮啓司(琴光喜)と、平成26年の大道久司(御嶽海)の4人。現役で大関陥落中の御嶽海には、復活して史上初のアマ横綱出身横綱になってほしいところ。

現役では御嶽海のほかに、平成24年の遠藤聖大(遠藤)、平成25年の川端翔伍(大翔丸)、平成27年のバーサンスレン・トゥルボルド(水戸龍)、平成28年の矢後太規(矢後)が、アマ横綱出身者。それに大の里が加わるわけです。

過去19人のアマ横綱出身力士を見ると、山口県・大津高教員だった平成元年の成松伸哉(智ノ花)以外は、すべて学生時代にアマ横綱を獲得しています。実業団横綱の項でも触れたように、やはり社会人からの大相撲入りはハードルが高いようです。

学生のみが資格のある学生横綱にくらべると、参加資格がある期間が長くなるアマ横綱では、複数年獲得者が多いようです。

現在までの史上最多獲得記録は4回平聖一(兵庫県)で、昭和30年~31年と、35年~36年と2度の連覇という金字塔を打ち立てています。昭和5年北海道生まれ。昭和23年に国体優勝、中央大学に入学後も活躍し、卒業後は兵庫県の大谷重工に入社。アマ横綱史上最多優勝の記録は60年以上のあいだ破られていません。

3回獲得者は3人。昭和34年と38年~39年連覇の布目豊(東京都)、昭和40年から42年まで史上唯一の3連覇を成し遂げた野見典展(和歌山県)、昭和44年~45年に連覇し49年も制した田中英壽(東京都)

なかでも日本大学在学時に学生横綱(昭和42年)を獲得し、日大職員(相撲部コーチ)として実業団横綱も2度制覇している(昭和45年と49年、いずれもアマ横綱と2冠)田中英壽はアマチュア相撲の強豪として知られ、大相撲の横綱にもなった後輩の輪島も勝てなかったという伝説が残っている猛者でした。その後も長く日大職員として勤め、最終的には学校法人・日本大学の第12代理事長にまでのしあがっています。

彼らにくらべると、大の里こと中村泰輝の連覇も霞もうというものか。ちなみに7人いる複数回優勝者のなかには、昭和51年~52年の長岡末弘(朝潮)、昭和56年~57年の服部祐兒(藤ノ川)、平成8年~9年の田宮啓司(琴光喜)と、のちに大相撲で活躍した面々もいますが、なんといっても凄いのは久嶋啓太でしょう。

昭和58年(1983年)にアマ横綱を制覇した久嶋は、当時、和歌山県の新宮高校3年生。いまだかつて高校生でアマ横綱になったのは久嶋だけ。おまけに日本大学に進学した翌年にはアマ横綱連覇と学生横綱を制し、学生横綱はそこから史上唯一の3連覇をしています。大学時代にアマ28冠の最多記録を残し、それ以前に高校横綱でも3連覇しているのだから、アマ最強の怪物だったのは間違いのないところ。

そんな怪物・久嶋でしたが、大相撲入りしてからはパッとした成績を残せませんでした。

出羽ノ海部屋に入門し、昭和63年初場所に幕下60枚目格付け出しで初土俵。しかし十両昇進を果たして久島海を名乗るまで7場所を要しています。新十両の平成元年(1989年)春場所で新十両優勝を飾ると、翌場所も連覇して2場所で新入幕。そこから快進撃かと思いきや、幕内と十両を行き来することが多く、平成10年九州場所前に引退するまで、三賞2回、金星2個、十両優勝3回にとどまりました。アマ時代の燦然たる記録に比して、まことに物足りません。

その後に年寄・田子ノ浦を襲名して田子ノ浦部屋を創設、ブルガリア出身の碧山を育てましたが、体調を崩して平成24年に46歳の若さで急逝しました。アマの怪物も、残念ながら大相撲では平凡に終わってしまいましたね。いや、関取になって部屋持ち親方にまでなったのだから、それはそれで凄いことなんですが……

かつての大相撲は、アマチュア相撲とはまったく別世界にありました。大相撲入門者の大部分は中学卒業までに初土俵を踏み、以後はプロの世界で育つもので、高校、大学、社会人の相撲大会が行なわれていても、それは大相撲とは別世界のものだったのです。こうたとえると怒られるのかもしれませんが、むかしの大相撲とアマ相撲は、プロレスとアマレスくらい別の競技だったのかもしれません。

その境界線が崩れたのは、昭和40年代後半以降、1970年代になってからのことでしょう。学生横綱から転身した輪島が大相撲の横綱になって成功したのが大きなきっかけになったのでしょう。

高校や大学で相撲を経験してから入門してくるものが多くなった現在は、むかしとはずいぶん変わってきているんですね。

もしも過去のアマ相撲の強豪たちが大相撲入りしていたら、相撲史にどんな違いが出ていたでしょうか。ちょっと想像してみるのも、面白いかもしれませんね。

史上最強の学生横綱

史上最強の実業団横綱

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