【短編小説】花の荷車の女1/3

 寝不足の男と、寝不足の女が、芝の上に直に背をつけて、眠っている。男の顔には白のタオルが乗っており、女の顔には青のタオルが乗っている。日光の直射を避ける処置であろう。
 場所、練馬区立星丘台地運動公園内、夢見の丘。
 日付、二〇二一年五月一日。
 天気、晴れのち雷を伴う豪雨。
 時刻、午前九時十三分。
 
 二人は長かった自粛をこの日解禁し、ほとんど一年ぶりに、揃ってこの公園に散歩に来ていたのである。前の晩、二人とも眠っていなかったので、ちょっと休憩のつもりで横になっているうちに、どちらからともなく、寝入ってしまったというところ――。
 いくら寝不足で、気温がちょうどよかったとしても、野晒しで六時間も七時間も熟睡してしまえるわけはないのである。枕も自分の腕だからそのうちには痺れてくるし、物音もする、――テニスのボールが壁に当たり地面にバウンドしラケットに打ち返されてまた壁に当たる、自転車が走る、犬が吠える、カラスが鳴く、ラジオを腰にぶらさげて老人が歩く、オゾン層を巧みに交わして線が降る。線が5Gの波と干渉して既存の周波数が乱れる、脳波がこじれる。ラジオにノイズが走る。髪の毛をほつれさせた老人は今更それが何だとばかり、真面目な顔で、歩いて行く。トランペットが吹かれる。コントラバスがうなりを上げる。四面ある草野球場ではどうやら練習だか試合だかが始まったか始まろうとしているかするようで、かけ声、ボールがミットに収まる音、バットが球を打つ音、監督の檄、選手の返事、煽りや声援の如きも遠く聞こえる。楽器演奏の禁止されていない運動公園であれば当たり前のそれらの音達が渾然一体となってやさしくではあっても耳を犯し熟睡は許されない。もとより熟睡するつもりもない。
 結局三十分程の仮眠の末、男は目を覚ました。ああ、眠っちゃったなぁ、うううん、あぁ、ちょっとスッキリしたなぁ、と顔のタオルを外して、両腕を空に向かって伸ばして太陽を握りつぶす真似をして、血を巡らせた。それから女はもう起きたのかそれともまだ寝ているのかを確認、という程のことでもないが何となく左に首をひねってみると、まず、女はまだ眠っている様子なのが視界には入った。が、それを脳が認識するより先に男の目を引いたものがあった、――揺れ動く大量の花の団塊だ。チューリップ、藤、ライラック、カズラ、といちいち種類などを男は思わなかったが、たわわに満載されて、ひしめいて。今にも溢れ落ちそうな、花のかたまり。おびただしくて、その色は黄。ところどころに紫や赤など混じるものの、空の青と、樹木・芝・草等の緑の視野の真ん中に、――真ん中、男が自分でそこに注目して、自分で焦点をそこに結んでいるので真ん中なのは当たり前なのだが、その上でなお、頑ななまでにど真ん中に――圧倒的な黄が煌めく。男は二秒絶句し、それから嘆声を漏らし、あれは、いっぱいの、花なのだ、と認識した。 
 男らのいる所から六、七十メートル程離れた辺り、さっき連れの女が木漏れ日の妖精をやって遊んだ小道を、大きな荷車が行くのである。主に黄色の花をめいいっぱいに積んで、そろそろ成人したかしていないかという年頃の女が引いて歩いているのである。小柄な女である。痩せている。引いているものが大きすぎるのでいっそう細って見えるだけなのかも知れない。そして首筋からすぐ袖に続く緩やかな仕立てのラフな上衣はまるでいじめられて絵の具でもぶち撒かれたかのように様々な色彩に汚れている。汗にも濡れているようである。花の荷車抜きで、この女を単体で見てもじゅうぶんに目を引く存在だ。
 ところで、ここで「女」が二人出て来た。どちらがどちらやら分かりにくすぎるから、最初眠っていた方の女を一時的に「A女」とする。バランスのために男の方を「B男」とする。
「ねえねえねえねえねえ!」
 とB男が反射的にA女の肩を揺すぶると、
「もうなによぉ。うぅぅぅん」
 とA女は悠長な寝起きを演じるが、
「違う違う。あれ見てあれ!」
 とB男はA女の顔のタオルをのけて、人差し指で、荷車を指した。しかし、
「なぁによもぉぉぉお」
 A女は、実は眠くもないのだが、まだまだ寝たりない感じの小芝居をし続けた。眩しそうに目を閉じて、手首で光を遮るような真似もした。何故本当は眠くないのに眠い振りをしたのかはA女本人にもそこまで明確な理由のあることではなかったが、物憂い感じに自分が眠たいふりをして、それをB男がしつこく起こそうとし続ける、というような一幕がしてみたい、と、ふと思ったのだった。しかしB男は今そういうことをしていたくはなく、真面目にあの荷車をA女にも見て欲しいので、
「いやほんとに見てみなって」
 A女の額にぐっ、と拳を当て、骨を砕かぬようには加減しつつ、力を加えてゆく。すると、
「阿痛ぁ!」とようやくA女は跳ね起き「なによ!」
「ごめんごめん、でもほら、あれ」
 とB男の指さす方を見てみれば、なるほど、夢の続きのようだとA女は思い、口でも、
「あたしまだ夢を見ているのかしら」
 と呟いた。花にまみれた牛がゆくようだ、とも思ったが、これは口には出さず、そんなことを思ったこと自体忘れ、
「ああー」
 と額をさすりながら喉をかすれさせた。荷車はちょうど木漏れ日の明暗がくっきりしている所にさしかかっていた。揺らめく光と陰のちらつきにむしばまれ、故障して紗がかかりっぱなしの液晶のようになっている。金粉をまぶしたようにキラキラ、ちらちら、既に故障しているのに追い打ちで金粉までかけられてショートして今にもヴン、という音だけを残して消えてしまいそうな映像だ。映像ではないのだ。実物なのだ。実物の荷車は積載量が多過ぎるために重心が不安定で、そのため物理的にもよたついており、光の揺れとの相乗効果で傍目には実情以上によろめいて見える。横転しそうな程傾いで見える瞬間さえあって、まるで足の悪い牛を小さな女が引いていくようだ、汗に濡れて引いていくようなのだ、とA女は感覚したが識覚するには至らず、
「ぉぉぉ」
 とのみ呻いた。
「ね、すごいでしょ?」
「うん、・・・・・・あれって、あの女の子・・・・・・、花を売ってるってことなのかしら?」
「あーそうかも。花農家の娘が、直売に来てる感じかも」
「花農家、なるほどね。そういう感じかぁ。にしても山積みだわね」
「確かに山積みだね。もしかしたら、虐げられてるのかも」
「え。・・・・・・全部売るまで帰って来るなみたいな?」
「うん。そういうことかも」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ていうか服、何であんなに汚れて・・・・・・」
 とA女は言いかけて、虐げられているからだと気付き、その先を続けられなかった。それに気付いたB男も黙ってしまった。
 と、憶測で悲しい気持ちになりかけていると、花売りの娘がつと、立ち止まり、辺りを見回す様子をする。お客を探しているのか、それともとりあえず腰を据えて営業できそうなエリアを探しているのか。その表情はマスクをしているために目もとからしか読み取れないのだが、なるほど悲しげと言えば悲しげな目であるような気もする。あるいは諦念して投げやりになっている人の目つきであるような気もする。返す返すも身体が痩せている。A女もB男も少し黙ったまま目を凝らして、花農家の娘の表情を更に読み取ろうとした。目もとだけであるし、そもそも遠いということもあって、はっきりとは分からないのだが、少なくとも、虐げられていないと言い切るべき根拠は見出せなかった。 花農家の娘は手の甲で額や首筋を拭うような仕草をすると、荷車の取っ手をその場に置いて、自分は傍にある樹木の根もとにちょこんと座り込んだ。
「あそこで売るのかな・・・・・・」
 とA女は言った。
「いやぁどうだろう、・・・・・・もうちょっとマシな場所もありそうなもんだけど」
 とB男は言った。
「そうよね。・・・・・・どう考えても人少ないよあんなとこ」
「教えてあげた方がいいのかな。そういうことも分からないくらい虐げられて育った子なのかも」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「何本か買ってあげよっか・・・・・・」
 と言うA女に、
「うん」
 とB男が同意し二人は腰を上げたのだけれどもこの時、花売りの娘は花売りの娘ではなかった。

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