【短編小説】花の荷車の女2/3

 花売りの娘ではない女は花農家の娘でさえなかった。絵描きになることを宿願としている一人の大人の女であった。身体が小さいのは生来の個性だ。今日はデッサンをしに来たのだ。近所の花屋で廃棄になった花を譲ってもらい、荷車にぶち込んで、果樹園の裏に捨てられていた腐った琵琶とサクランボも嵩増しにぶち込んで、途中の路傍に咲いていたたんぽぽもぶちぶち千切ってぶち込んで、汗をかきかき運んで来たのだ。板橋区を縦断し、はるばる練馬まで運んで来たのだ。『とさつ場に運ばれていく花達』を描くつもりだった。少し傷んでいるような花も混じっているが、それでよかった。花を描きたいのではなくぶち込まれた様を描きたいのだからぶち込まれてさえあればそれでよかった。 夢見の丘の天辺から南西に見下ろして、練馬の名木100本からは洩れているが、『【容子】の個人的な名木100本』には選定されている三つ叉のアメリカスギノキを遠景に、燃えさかる花の荷車を描くつもりだった。しかしそこには男女の先客があった。しかもどうやら二人とも眠っているようなのだ。睦まじく並んで。のんびりと。この見晴らしのいい丘はもちろん絵描きの女――【容子】の私有地ではなく、一般に開かれた公園なのだから誰がいたって構わない場所なのだが、先客がいるのを認めると、みぞおちの辺りに湿った海苔のようなものが張り付くのを感覚した。少し遅れて眉間に電気が走り、眉がぴっ、と狭まるのも感じた。狭めたのではなく狭まったのだった。更に舌打ちが鳴った。いや、舌打ちはさすがに《鳴った》のではなく、《した》。むかついたのだ。
 むかついてから、まあまあまあ、あそこは、っていうか、公園は全体、みんなのものだから、舌打ちとかするのはおかしいわね。けどよりによってピンポイントであそこで寝るものかしらね。寝るならもっと他にベンチとか、せめて木蔭とか、いくらでもありそうなものだのに。と思った。
 男と女は眠っているのであって、フリスビーをしているのではなく、キャッチボールをしているわけでも、うるさい楽器の演奏をしているわけでもないのである。であれば、ちょっと離れた場所で絵を描けばよい、描けないことはないだろう、と、傍目には思われる。眠っている男女の占有スペースはせいぜいたったの2メートル四方、しかも眠っている者の常としておとなしくそこを動かないのであるから、全然まだまだスペースは余っているのではある。気にせず絵くらい描き始めたらよい。けれども容子は眠っている男女の近くへ行って画布台を設置し、画布を置き、花の荷車をいい角度に調整し、下書きを始めるのを躊躇した。なんとなく、フリスビーやキャッチボールをする者達が領するよりも広い――理不尽に広すぎる――テリトリーを、眠っている男女が領しているように感じたからだった。物理的には2メートル四方なのに、静かに動かない二人なのに、不可解な、心理的な領域が眠る男女の二つの身体からきらきらと放射されていて、――ああ、まぶしい――、サンクチュアリのようなものがどろどろと一帯にあふれ出していて、――なんなのさ、みんなの公園なのに! くやしい! と絵描きの女・容子は思った。思ってから、くやしい、などと思うこと自体が忌々しいことだと思った。とにかくあの二人がいる間はとても集中できそうにないので、丘の周囲の小道を周回することにした。それは涙ぐましい公転だった。早く起きてどこか行け、と念じながらぐるぐると、時にはわざと咳払いしたり、荷車の車輪で巧みに石をかすめて音を立てたりというようなけなげな努力をしながらの孤独な公転。荷車の車輪はきこきこきしむ。きしむ。まるで私の人間関係のようにきしむ、と容子は思った。私は車輪、出来の悪い車輪ね。どいつも、こいつも。
 やがて男の方が目を覚ましたようだった。気持ちよさそうに腕を伸ばして、首をひねり、女の方を気にしてか、振り向いた視線が、女をではなく、容子を捉えた。いや容子をというより荷車の方に視線が据えられた。容子は一瞬男と目が合ったような気がして、この場合、まるでずっと、じっと、眠っている男と女を見ていたと思われかねない、かねないというか、ほぼそうなのだが、容子は瞬時に視線を外し、口笛を吹きこそしないものの、わざときょろきょろと色んな方向に目をやった。色んな方向を見ながら歩いていた所、偶然、たまたま、そっちを見た瞬間にあなたがこっちを見たので目が合った、百カ所くらい視線を当てたうちの一カ所にあなたがいて、たまたまその瞬間にあなたがこっちを見たのだ、私はあなたのことも、隣の女のことも、全く歯牙にもかけていない、ということにしようとした。しようとしたのだが、してみてから如何にもどぎまぎしたような挙動になってしまっているのを自覚した。一瞬、もう今日はこのまま帰ろうかと思った。がそれも悔しい。負けたくない。こんなことで絵を諦めたくない。とにかく男は目を覚ましたのだ。あとは女の方が目を覚ませば、あんな所でいつまでもいても退屈に違いないからやがては立ち去るだろう。そうしたらゆっくり絵を描ける。もう少しの辛抱だと思い容子は荷車を引いた。引きながら、こんな風にあの男女から一定の距離を取って公転している私というものは、あの男女の目にはどのような姿として映るのだろうか? という考えが頭をよぎった。たまたま私が公転していたら、偶然その中心にあなた達がいたのだ、というのはちょっと無理筋な気がした。地球がなんとなく公転していたところ、たまたまその中心に太陽が実在したわけないだろうああもうやばい終わった帰る。と、萎えかけた容子だったが、ぎりぎりで冷静な前頭葉が、まだ大丈夫だと言っていた。容子自身はかれこれ二十分ほど同じ軌道を回っていた、これは確かな事実には違いない。けれどもその間眠っていたあの男と、今もまだ眠っているらしいあの女からしてみたら、容子が既に何周もしている人物であるということは知らない筈なのだ。もし容子がこの後もしつこく回り続けるのだとしたら、それは不審かも知れないが、今ならまだ大丈夫、ただの通りがかりの女ということにできる。そこで、
「ふう。疲れちゃった」
 と言った。言ったところで聞こえる筈はないのだし、唇の動きだってマスクの下では見えるわけもなく、距離を考えても伝わるものではないのだが、これは、自分自身に、自分は疲れたから休むのだ、という暗示で言ったのである。明瞭に、「ちょっと一休みしよう」とも付け足して、近くの樹木の根もとに、腰を下ろした。男と女の方にはもう視線を向けない。何故なら別に気にしていないから。歯牙だから。「歯牙ね」と呟き「歯牙だわ」と直し、自然な動作で額の汗を拭った。ひらひらと手で首筋を仰ぎながら、ハンカチかタオルを持ってくれば良かったと思った。それから、賢治は今頃どうしているだろう? と思った。正樹は何をしているだろう? 和博は? どうだっていい! ああ何でまた思い出しちゃうんだろう、あんな糞みたいな男ども。それらはどれも容子を裏切った男達だ。恋愛関係に至った筈の男の全員がもれなく浮気をしたのである。部屋に呼ぶなら、せめて、別れてからにしてよ。トラウマ! それぞれの男がそれぞれの女とともに、容子を裏切ったのである。裏切った男を恨めばいいのか、裏切らせた女を憎めばいいのかが容子には皆目分からなかった。仕方ないから人間を憎悪した。二度と愛さない。と誓った。私は絵だけ描いて生きる。描いて死ぬ。描けなくても死ぬけど。描けなくて生きるという目はない。生きるなら描く。いずれ死ぬけど。死ぬまでは描く。描くんだ、と容子は遠くの木々を睨み付けて考えた。でもちなみに賢治は今頃後悔しているだろうか? 正樹は時々でも私を思い出して泣いているだろうか? 和博は・・・・・・、あぁ・・・・・・、もう一回ちゃんと謝ってくれたら、許したのに・・・・・・。いつしか本当にぼおっとしてしまっていた。風が吹いた。少し湿り気を帯びた風だった。我に返った。
 ――あ、そういえばあいつらはもう去っただろうか、と思い出し、そっちの方を見てみると、男も女もまだそこにいて、全然どこにも行っていない。いつの間にか女の方も目を覚ましたようで、二人並んで座っている。こちらに顔を向けている。雁首並べて、まともに、完全に、こちらを、注視している。容子は慌てて目を逸らし、右斜め上の梢の群がりを見た。群がりが揺れていた。――が、――あれ? と思った。今回は、自分が目を逸らすことじゃないのではないかと思われたのだ。私はただここに座って考え事をしていた、本当に考えたくもない考えを考えて考えに浸ってしまっていた、それでふと、あの男と女の方を見たら、二人、顔を並べてこっちを見ていた。ということは、何見てるんだよ、と言うのは私の方で、あの男と女は何見てるんだよ、と言われる立場ではないか。というか、普通に、あいつら何で見てる。なんてぶしつけな視線。きもち悪い。なめてる。自分らが今幸せだから見下して悦に入ってる。許せない。薄目の横目、マスクの下ではきりきりと歯ぎしりしながら男女の様子を窺っていると、二人して立ち上がり、ぱんぱんと尻や腰の土を互いにはたき合っている。おや、やっとどこかに行ってくれそうだ、それならそれでいい、関わらないで済むならわざわざ因縁つけたいわけじゃないんだから、――と思いきや、女と男はこちらに向かって歩き始めた。
 
       ※
 
 その後の、やりとりを、くどくどとは述べまい。
「こんにちわぁ。うわぁ。きれいな花ですねぇ。おいくらなんですかぁ?」
 と高く歌うような声で話しかけてきた女を、容子はただ一言、
「売らない」
 低い所を刺すように、峻拒した。

次のお話【短編小説】花の荷車の女3/3へ
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?