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世界設定資料集 3.3 善人と悪人


 「善人」「悪人」という言葉には、周りの人々にとって都合の良い人、都合の悪い人というニュアンスが多かれ少なかれ含まれている。大まかにいえば、自分が利益を得る機会を逃してでも他の人に利益を与えるのが善人であり、自分の利益のためならば他人に不利益を与えても構わないのが悪人である。

 人は協力し合わなければ生きていけないため、他人に害を与えてしまう人間がいると人間関係はうまく回らないものである。しかし、ある人が善人であるか悪人であるか客観的に判断するのは容易ではないし、無意味である。

 例えば、ある人の善悪をその人の行動によって判断しようとするならば、極端な場合、集団にとって利益があるかどうかでその人の善悪が決まるような全体主義的思想にもつながりかねない。その人の心の内側によって判断する場合、他人が心の内に踏み入り、その良し悪しをジャッジすることになる。思いや感情は人の人格の核になる部分であり、しかも本人にもコントロール不可能な部分であるため、それを悪と決めつけることはその人を深く傷付ける。

 人に害を成してやろうと生まれながらに思っている人など存在しない。その行為が誰かを苦しめているということを知らないか、何らかの形での復讐であるか、善人であろうとすることに挫折し絶望したか、いずれにせよ最初から悪を成してやろうという目的を持っていたわけではないはずである。悪いことをしている自覚のある人間であっても、悪人でいることに耐えられない。仕方がなかった、相手が悪いのだと自己正当化し、あるいは罪悪感で自分を罰し続ける。

 悪を成した背景には、それがどれだけ身勝手なものであれ、その人なりの切実な事情がある。裁く側の人にとってその事情が共感しやすいものであれば罪は軽く、しにくいものであれば重くなる。判断するのが人であり、それぞれの経験や立場や気質がある以上、客観的に善悪を測ることは不可能で、判断する個人にとっての善人と悪人がいるだけである。

 私にとっての悪い人と私は付き合わなくていい。私にとって許せない人を私は許さなくていい。正義という言い訳を持ち出す必要はない。絶対評価としての善悪の程度を見定めようとするよりも、より良い関係を作るためにどうすれば良いのか考えるほうが建設的である。

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