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世界設定資料集 1.2 ひとつながりの宇宙



 宇宙は切れ目なく繋がっている。

 境界線は人間が決めた概念上の存在であり、人間が観測しなければそこには徐々に色彩を変えるグラデーションがあるだけである。

 どこまでがアンドロメダ銀河か、どこまでが太陽系か、どこまでが人間か。人間が本来そこになかったはずの線を引き、名前を付け、切り分ける。

 どこまでが「私」なのかすら曖昧なものである。生えている爪が「私」の一部であるならば、今しがた切った爪の断片は「私」ではないのだろうか? 頭皮からは抜けているがまだ他の髪の毛に紛れている抜け毛は? 埋め込んだ義歯は? 常在菌は? かつて「私」を構成していて二酸化炭素として肺から吐き出される炭素は? 皮膚と金属の接点で交換される電子は? この思考は「私」が生み出したものか、それともいつか誰かから聞いたものなのか?

 細かく考えれば考えるほど境界はぼやけてくる。元々そこに境界など存在しないからである。ただ「私」や「あなた」や「地球」を一個の独立したものと考えたほうが人間の頭では扱いやすいので、便宜上の線を引いているだけである。

 「私」という存在は、「私になりつつあるもの」や、「私でなくなりつつあるもの」や、「うっすら私であるもの」が何となく寄り集まった雲のようなものである。

 水や空気も、隣にいる誰かも、ディスプレイの中のあの人も、かつて私の一部であり、いつか私の一部になり、私と影響を与え合う可能性のある存在である。今はもういない人もあなたの一部として残っている。まだ生まれていない人にはあなたの一部が引き継がれる。名前の付けられた一個の生命体としては存在しなくなっても、体を構成していた原子が消滅することはない。形を変え、拡散し、循環し続ける。

 だからこの宇宙で起こることに他人事など存在しない。宇宙が丸ごと一つの塊であり、一つの命である。

 我々は宇宙の命を構成する重要な一要素であり、同時に何をしようとも宇宙の生存や終焉の道筋を変えられない無力な塵である。

 宇宙は人間に何も期待しない。正しさも理想も示さない。宇宙は不格好な私の存在を許している。生も死も痛みも喜びも、全てが許されている。

 進むべき道や避けるべき罪を示してくれる大いなるものはいない。我々にできるのは、どう生きたいのかを真摯に考えることだけである。我々の人生は我々の手に委ねられている。

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