見出し画像

めっしほうこう。滅私奉公。
「私」を「滅して」、「公」に「奉ずる」。

良い意味で言えば、
「わがままにならない。和を乱さない。
みんなのために自己犠牲で頑張る」
という、尊いフォアザチームの精神

悪い意味で言えば、
「思考停止。言われるがままで主体性なし。
『みんなのために』が言い訳の奴隷根性」
という、言いなりの木偶人形

…読者の皆様は、滅私奉公と聞いて、
どちらのイメージが思い浮かびますか?

もう一つ、お聞きします。

がまん。我慢。
「我」つまり自分に「慢心」する。

『辛抱、忍耐、ひたすら耐える』
という意味で今ではよく使われますが、

『自分を特別なものとみなし驕り高ぶる』
という意味が、元の意味です。

読者の皆様は、どちらの意味が
ぱっと思い浮かびますか?

本記事は、この二つの言葉を鍵に
日本人がよく「美徳」とする精神について
考えてみたいと思います。

(※本記事は 松本 淳 さんの
『「従順さ」に逃げないこと。
「反抗心」がキャリアには必須だから』
という
リンクトイン記事、voicy記事、note記事に
触発されて書いております。
未視聴読の方は、リンクからぜひ↓)

さて、滅私奉公や我慢と聞くと、
私はすぐに「高校野球」を思い浮かべるんですね。

野球は、チームプレーが鍵。
全員が「オオタニサン」や「村神様」のような
凄いホームランバッターでない以上、
何とかして塁を進めて、ホームを
狙っていかなければいけない。

そこで使われるのが「送りバント」です。

これには、自己犠牲の精神が欠かせない。
「犠打」です。
打者の自分としては、アウトになる。
しかし走者の他人は、次の塁に進む。

この「送りバント」を効果的に使えるチームは
本当に強い。着実。
しかし、そのバントをした打者が
「アウト」になりがちなのは事実です。
(もちろん一塁上で「生きる」ケースもあります)

この「送りバント」を、
日本人は、多くの組織で多用しています。

すなわち「犠打」
バッターボックスに立つ選手は、
自分が打ちたい、という心を押さえ
チームのために、仕事を進める。

スポットライトが当たりがちなのは、
進めた走者をホームに返す
「エースで四番の営業」であったり、
その采配を振るった
「硬軟織り交ぜた経営者」であったりします。

滅私奉公を、強いているケースが多いんです。

「…それの何が悪いんでしょう?
弊社では、チームプレー、全社員一丸、
誰もがエースで四番なんです。
送りバントをなめるな!
弊社では、きちんとチームプレーに
徹した人も評価している
んだ!!」

そう、反論される方も多いと思います。

私も、光が当たれば陰もできる、と
思っていますので、
全否定したいわけじゃない。
「オオタニサン」も「村神様」も、
人が見ていない陰では凄く考えて努力して
素晴らしい選手になった。

ですが、滅私奉公に徹し過ぎて、
「私」が「滅ぶ、滅する」と、
「自分自身のキャリア」としては
いかがなものか
、と言いたいのです。

送りバントも、なかなか奥が深いものです。

ただ転がして、自分がアウトになればいい、
というものではない。

強豪チームの選手は、送りバントを
「滅私奉公」とはとらえていません。

「自分が主体」となって、行っている。
自分の立ち位置や戦況を把握している。

セーフティー気味にバントしたり、
バントの構えで投手を揺さぶって
四球を選んだりと、

あわよくば「自分も生きる」手立てを
考えながら送りバントをする
んです。
決して思考停止していない。

「自分を滅して」
送りバントをしているわけではないんです。

もう一つの言葉のほうにいきましょう。
「我慢」について。

これは仏教由来の言葉です。
七つの「慢」を戒めています。
しちまん。

◆1、慢(まん)
◆2、過慢(かまん)
◆3、慢過慢(まんかまん)
◆4、我慢(がまん)
◆5、増上慢(ぞうじょうまん)
◆6、卑下慢(ひげまん)
◆7、邪慢(じゃまん)

慢、まんとは、煩悩のことです。
他をあなどる心、自ら驕り高ぶる心。
それぞれの意味は、次の通り。

◆1、慢:劣った者より優れていると驕る
◆2、過慢:同等の者より優れていると驕る
◆3、慢過慢:優れている者より優れていると驕る
◆4、我慢:自我に執着し自分は偉いと驕る
◆5、増上慢:悟りを得ていないのに悟ったと驕る
◆6、卑下慢:優れた者と少ししか差がないと驕る
◆7、邪慢:徳が無いのに徳があると驕る

このうち、我慢と増上慢は
日本語として今でもよく使われています。

ただし「我慢」の意味は、変わっている。
本来は「自分に執着し自分は偉い」と
うぬぼれることなのに、
今では「自分を殺しわがままを言わない」的な、
忍耐とか辛抱などに近い意味で使われる。

【用例】
子ども「ゲームで遊びたい!」
親「宿題やってから! ガマンしなさい!」

この我慢の意味が「すり替わった」のは、
近世のあたりから、と言われています。
そう、江戸時代のあたり。

江戸時代と言えば、武士は偉い、
家柄が凄い家に生まれた人は偉い、
そういう時代ですよね。

しかし、人間である以上、
「俺のほうが偉いんじゃないか」という
下剋上精神は誰にでもある。
その戦国時代風の下剋上精神を否定して
「どうする家康」の徳川家康が
作り上げたのが、江戸幕府。

言われてみれば家康も、
「泣くまで待とうホトトギス」的な
現在使われる意味での「我慢」を
重ねて天下を獲った人
、ですよね。
本来の意味での「我慢」は
六天大魔王こと織田信長のほう。

彼が、信長とか、下剋上の化身の秀吉とか、
そういうものを否定してつくったのが
江戸幕府、江戸時代です。
となると我慢の意味が
「滅私奉公」的なものに変わっていったのも
何となくうなずける…。

最後に、まとめます。

『昭和元禄』とも呼ばれた
安定成長の時代なら、
「何も考えない」送りバント、
思考停止・終身雇用・滅私奉公型でも
それなりに賞賛され認められてきました。


むしろ、転職とか和を乱す行為は
「わがままだ!」と批判されてきた。

ですが令和時代、世の中が乱れ、
「壁」が溶け出している戦国時代


その中で、何も考えず、自分を滅するのは
かなり、危険なこと
だと思います。

下剋上精神、批判精神、主体的な精神。
本来の意味での「我慢」。
自分とは何なのか、自分の尊厳とは…。

そういうものを、身に着けてみても
いいのではないか、と思うのです。

誤解を防ぐために書きますが、
もちろん、なんでもわがままに、
他人はどうなってもいい「迷惑系」になれ、
全部ホームランを狙え、サインは無視しろ、
という意味ではありません。


送りバントも、立派な作戦の一つ。

ただ、「思考停止」してはいけない。
自分の行動に自分で責任を持ち、
自分の「生きる方策」も考えた上で
送りバントを試みてはどうか、ということです。

読者の皆様は、どう思いますか?

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!