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信長、秀吉、家康は、キャラが立っている。

このたび五回にわたって、
戦国時代~安土桃山時代の記事を投稿し、
改めてそう思いました。

本記事は、ちょっと振り返りで書いてみます。

五回の記事のタイトルはこちら。

①武田勝頼の誤算、長篠よりも

②どうする勝頼、高天神城

③どうした信忠、本能寺の選択

④天下分け目の小牧・長久手

⑤本当に『関ケ原』は天下分け目だったのか?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は
戦国時代の「成功者」です。
うまくいったほうですよね。

それに比べて、記事でも取り上げた、

武田勝頼、織田信忠、石田三成は
厳しく言えば戦国時代の「失敗者」
しくじり先生、と言ってもいい。

三人は、なぜ成功したのか?
三人は、なぜ失敗してしまったのか?


そんなことを対比させることで、
さらにキャラが際立っていきます。

◆織田信長

信長は、まさに「破壊王」です。
常識を、ぶち壊しにいきます。

例えば、市や座について。
商売するにも「規制」がありました。
彼は、それを「楽市楽座」で破壊した。

例えば、将軍の扱い。
室町幕府の将軍は「偉い人」です。
彼は、それを利用し、追放し、破壊した。

例えば、寺社への対応。
比叡山延暦寺と言えば、神聖な場所。
彼は、それを炎上させ、破壊した。

…経済、政治、宗教、あらゆる面で
「自分カラー」に染め上げようとした。


ただ、こうした「破壊王」信長も、
壊すだけではないんです。
合理的な判断で、壊しています。
彼の主観から見て、
理に合わない、よくわからない決まりを
壊しているだけです。

ですので、ちゃんとそれに代わる
「代案」を出して、実行している。
楽市楽座、朝廷への接近、キリスト教優遇。
まさに「時代の変わり目」に生まれた
風雲児、革命児、と言えましょう。

◆豊臣秀吉

その信長の後に天下人となった秀吉は、
いわば「交渉王」、ネゴシエーターです。

どうしても天下人としての
「大坂城」とか「黄金の茶室」とかの
キンキラのイメージが強いのですが、

彼は、三人の中でも断トツの
貧しい境遇に生まれ育ちました。
下剋上の極み、とも言えます。

若いころには百回以上も
仕事を変えた、とも言われている。
農民だか商人だかよくわからない出身。
奴隷のような、苦役すらやっていた。

なので、とにかく人間理解がすごい。
人たらし、と呼ばれるゆえんです。
相手が何を求めているのか、
何が欲しいのかを
肌感覚でとらえられる。
想像ができる。

秀吉は、信長に仕えたあとは
「調略」のプロとして仕事をしています。
要は、スカウトです。
敵の主要な武将を、自陣に引き込む。
メリットとデメリットを提示し、
こちらについたほうが得だと思い込ませる。

これは天下取りにもおおいに役立ちまして、

戦っていたはずの毛利軍と講和し、
「中国大返し」を成功させる。
柴田勝家の味方だったはずの
前田利家を自陣に引き込む。
家康と組んだ織田信雄を懐柔する。
ついには家康すら、自分の家臣にする。
黒田官兵衛、真田昌幸といった
クセの強い人たちも、秀吉の魅力の前には
太刀打ちできません。

まさにタフ・ネゴシエーター
交渉にかけては、芸術的ですらある。

◆徳川家康

その秀吉の後に、天下を獲った
家康は、そうですね、
「学習王」とでも言いましょうか。
人に学び、歴史に学ぶ。

例えば武田信玄。
信玄のために家康は何度も
死にそうな目に遭いました。

ですが武田家を滅ぼした後、
彼は武田の遺臣を召し抱えます。
「なぜ信玄は強かったのか」
その強い信玄にあやかろうとしたんです。

ついには家臣の井伊直政に
「赤備え」をさせます。
旧武田家の飯部虎昌・山縣昌景の軍が
赤い甲冑を装備をしていた。
家康、三方ヶ原でボコボコにされました。
その敵の装束をラーニングさせたんです。
偉大な敵手に学ぶ。

江戸に幕府を開いたのも、
歴史に学んだ成果だとも言えます。

彼は『吾妻鏡』を愛読していた。
これは、鎌倉幕府の初期のあたりの
ことを書いた歴史書。
現在で言えば、大河ドラマの
『鎌倉殿の13人』を、何度も繰り返し
視聴するようなもの。

源頼朝に学び、東国に幕府を開く。
平家が滅んだのも源義経が倒されたのも、
西の朝廷に近づきすぎたのが原因だと
彼はこの本から知っていたのです。

鎌倉時代には「六波羅探題」が
京都を見張っていました。
江戸幕府では「京都所司代」が置かれる。

幕府の役職も、基本、複数制にする。
将軍とは別に大老とか老中とか。
町奉行なども、原則、二人制です。
これも鎌倉時代に
「将軍と執権」「連署」など
合議制で政治をしていたことにちなみます。

…今では当たり前のように思えますが、
当時は戦国時代ですから、
「西に上京する」「独裁政治を行う」
ことが、当たり前でもありました。
そこをあえて歴史に学び、
実際に活用するのが、家康の凄さ!


ついには死に臨んで、
自分を日光で「東照大権現」として祀り、
幕府の守り神にしろ!と言い出します。

これも、日本史をしっかり学んで、
「日本にいる以上、天皇の権威は絶大だ」
ということを熟知していたからでしょう
(信長や秀吉は外征を企てることで
その枠組みから抜けようとしましたが)。
自身の権威の源、征夷大将軍の位も、
天皇から授けられたもの、ですからね。

そこで、アマテラス、に対抗して
東照、アズマテラスという神を創設。
江戸時代の大部分において、
幕府の権威は、朝廷を圧倒していました

(幕末には崩れていきますが…)。

これも、自らを「神」として
あがめさせようとした信長から
学んだアイディアでしょう。
権力の象徴「江戸城」も、
「大坂城」の秀吉からラーニング…。

家康、学習して実用するんです。

◆まとめ

この「成功者」の三人に比べて、
「しくじった」三人は、何が違ったのか?

私は、次の二つが成功の秘訣だと思います。

◆『とにかく味方を増やした』
◆『とにかく命を大事にした』

勝頼は、敵を作りすぎた。
信忠は、本能寺の変から脱出できなかった。
三成は、自陣から裏切り者が続出した。


それに対して、

信長は「敵」を破壊する代わりに、
新しい時代に対応するような
新興商人や宣教師たちを味方にしました。
桶狭間の戦いのようなバクチ、
ギャンブル的な戦いはその後ほとんどせず
常に多い数で戦うようにしています。

秀吉は言うまでもない。
信長の無理難題をことごとくこなす
(こなせない人は、追放されたりします)。
交渉で、敵すら味方につける。

家康は、武田信玄との戦いや
本能寺の変、小牧・長久手の戦いなど、
何度も死にそうになりますが
自分がやられないよう逃げ切ります。
また、医学を勉強していて、
自ら薬を作るほどの健康オタクでした。

◆『味方(つながり)を増やす』
◆『命を大事に(健康第一)』

これが誠に単純ではありますが、
現代の令和乱世、戦国時代を
生き抜くための秘訣ではないか…。

私は三人の歴史から
そのように感じるのです。

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