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織田信長の息子、織田信忠。
おだのぶただ。

「彼が生きてさえいれば、
豊臣秀吉も徳川家康も
天下を取れなかった、かもしれない」

彼は、わずか26年ほどの生涯を、
「本能寺の変」によって閉じます。

信長の後継者、信忠!
彼の死は、父の信長の死と同様、
日本史に大きな影響を与えた。

本記事は、この織田信忠について。

…長い間、彼は
「信長の息子というだけ」
「暗愚な後継者」
として
知られてきました。

その理由は、徳川家康の息子、
信康の死に、関係があります。

徳川信康(松平信康)。

信長と家康は同盟を結んでいましたが、
ある時、信長は
「家康殿は立派な息子をお持ちだ!
それに比べて、わしの信忠は…」と
自分の子どもの不器量を嘆いた、
というのです。

信康はその後、
武田家への内通を疑われたりして、
自刃(自殺)に追い込まれます。

「立派な徳川信康、暗愚な織田信忠」

このような印象が独り歩きして、
残ってしまいました。

…しかし、ですね。

最近の研究では、この信忠、
しっかりした男だったと言われています。
決して、愚かではない。

信長の評価も、二人を比較分析して
冷静に言ったわけではなく、
印象だけで言った、とも解釈できる。

そもそもですね。

仮に、信長がそう判断したとしても、
信長は一種の「異常人」。
通常の感覚とは、かけ離れたところがある。
その人に「不器量」だ、と言われても、
「そりゃ、あんたと比べれば、ねえ」
と言いたくなるところがある。

信忠の生涯について、書いていきます。

1557年、尾張の生まれ。

幼名は奇妙丸
信長が「奇妙な顔だ」と思ったことから
名付けられた、と言われます。

(今ならキラキラネーム。
そもそも信長、自分の子どもたちに
「茶筅丸」「三七」「酌」「人」などと
名付けるような、ぶっ飛んだ感覚です)

彼は、信長の「天下布武」の戦いに従い、
各地を転戦する。

信長にはたくさんの子どもがいましたが、
その中でも別格の存在。
信長の正室、濃姫の養子になった、
という説もあるほど。

「後継者は、文句なしに信忠様!」

そういう意識が、家臣たちや
兄弟たちにはあった、と思われます。

武田信玄の娘、松姫との婚約も、
とりかわされました。
信長にとっては、西に進撃する以上、
東の武田とはことを構えたくなかったので。

しかし。

1572年、武田軍は西上。
織田・徳川連合軍 VS 武田軍。
これにより松姫との婚約、解消。

この武田との戦いで、信忠、大活躍します。

1575年、長篠の戦いで勝利。
その後、岩村城を攻め取り、武名を上げる。
1576年には、信長から織田家の家督と、
美濃東部、尾張の一部を譲られる。
(もちろん「天下人」は信長で
織田家の家督をもらっただけですが)

この時に信忠の家臣になったのが
「斎藤利治」という男です。
斎藤道三の末子、濃姫の弟。

信長は、義父の道三に気に入れられていた。
信長も、義弟の利治を気に入っていた。
斎藤家の跡継ぎにと考えていた節があります。
そのお気に入りを、信忠に任せる。
これだけでも、信長は
息子の信忠を信頼していた、と言えます。

1577年には、裏切った松永久秀退治に、
明智光秀、羽柴秀吉らを率いて
総大将として出陣し、久秀を討ち取る。
「従三位」の官職まで与えられる。

このように順調に出世した信忠。
武田氏滅亡の「甲州征伐」でも活躍します。

1582年、武田家を滅ぼすべく
織田・徳川・北条連合軍は
信濃(長野)・甲州(山梨)を攻めました。

その時の総大将は、織田信忠。

これがまさに「進撃の信忠」とも
いうべき、電光石火のスピード!
あの信長ですら
「もう少し慎重にやれ」と言ったとか…。
信長も後詰めで後から行く予定でしたが、
あっという間に
武田家を滅ぼしてしまうのです。

すごいぞ、信忠!

信長はおおいに息子を褒めて、
天下人の地位を渡すことを
皆に宣言した
、とも言われます。

しかし、1582年。

最大のライバル武田家を滅ぼした年は、
この親子が死んだ年になりました。
絶頂からの転落!
明智光秀の謀反「本能寺の変」です。

1582年、6月2日早朝。
光秀は本能寺を攻め、信長を討ち取る。
次いで、北北東に1.2キロ、
妙覚寺にいる信忠のほうに向かう。

光秀にとっては、
信忠を討ち取るのも大事なことでした。
逃がすと、危険だから。

信忠は、二条新御所に立てこもります。
皇族や公家、女性を、まず逃がす。

この時に、家臣の中には、
「安土城に逃げましょう!」
と勧めた者もいた。

しかし信忠、こう言った。

「これほどの謀反だから、
敵は万一にも我々を逃しはしまい。
雑兵の手にかかって死ぬのは、
後々までの不名誉、無念である。
ここで腹を切ろう」

そのうち、明智勢に囲まれた。
約10,000人 VS 約2,000人。
三度まで寄せ手を撃退するものの、
ついに自刃した、と言われます。

…でも、ですね。

ここで信忠の息子(まだ赤ちゃん)、
「三法師」は、助かっているんです。
また、弟の「織田有楽斎」も
まんまと逃げおおせています。

…これ、逃げられたんじゃね?

後付けとしてはそう考えますけど、
ともかく、信長と同日に
後継者の信忠も死んでしまった。

ですが、光秀に一矢、報いている。

信長も信忠も、自分の討ち取られた姿を
光秀には渡さなかったんです。

これにより「信長も信忠も生きている」
という流言が飛び交い、
光秀、味方を増やすことができなかった。

そりゃそうです。
もし仮に信長や信忠が生きていたら、
光秀に加担した者は
後で制圧されてしまうので…。

そのうち「中国大返し」の秀吉に、
光秀も討ち取られる…。


その後、秀吉は清須会議で
信忠の遺児「三法師」を活用して
天下を握っていきます。
信忠の死は、秀吉にとっても
都合が良かった、とも言えましょう。

最後に、まとめます。

信長の後継者、信忠。
しかし父と同日に死に
「後継」することができませんでした。


一説によると、
武田氏の滅亡後、八王子に落ちのびていた
かつての婚約者、松姫に
「京都に来い、結婚しよう」と
迎えの使者を出していたそうです。

織田家と武田家は敵対していましたが、
二人は愛を育んでいたんですね。

松姫は、喜んで京都に向かう。
その道中、本能寺の変を知った、とのこと。

彼女は八王子のお寺で尼となり、
武田家とともに信忠の冥福を祈った、
と言われています。

(なお、彼女はその後、
姉たちと一緒に、後の会津藩初代藩主、
保科正之を幕府から預かって、
育てたそうです)

もし信忠が、本能寺の変で死なずに、
生き残っていたら?


秀吉政権も江戸幕府もできず、
心優しき織田家の当主として
天下を治めていたのではないか…。

危機管理として、
トップと後継者はあえて
離れていたほうが良かったのでは…。

恥も外聞も投げ捨てて
逃げても良かったのではないか…。

信忠の短すぎる生涯は
私たちに多くの考える材料と
教訓を与えてくれます。

◆織田信忠に興味を持った方は、
こちらの書籍も合わせてぜひ。
和田裕弘さんの
『織田信忠―天下人の嫡男』

また、八王子の銘菓
『松姫もなか』
この松姫にちなんだお菓子です↓

詳しく書かれていますので、ぜひ。

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