森鷗外、りんたろうの外遊と苦悩
明治の文豪として夏目漱石と並び称される
森鷗外(もり おうがい)!
本名は、森林太郎。
しんりんたろう、ではなくて
「もり りんたろう」です。
木が多いですね。
ペンネームの「鷗外」の
由来には諸説がありますが、
「鷗」(かもめ)の「外」ですから、
空を飛ぶかもめに、
さまざまなしがらみに縛られた
自分を仮託して
自由に筆を執りたい、という気分が
込められているように思います。
(「かもめの渡し」から取ったとか、
友人の雅号からとか、
杜甫の漢詩からとか、諸説あり)
実際、鷗外は「外遊」をしています。
留学をしているのです。
本記事では、鷗外の外遊と苦悩について
書いてみたいと思います。
1862年~1922年の人です。
約60年の生涯でした。
1868年がいわゆる「明治維新」なので
「ザ・明治の文豪」ですよね。
彼は東京生まれではなくて、
島根県の津和野に生まれました。
津和野藩の藩医の家の出です。
教養のある家の出ですから、
幼い頃から漢学を学習します。
彼の書く文章は文語調のものが多い。
この頃の学習が土台になっている。
1872年、十歳の頃に「廃藩置県」で
津和野藩が無くなったこともあり、
東京に上京してくる。
同じく文豪の夏目漱石は
「英語」の道に進学しましたが、
森鷗外は違います。
藩医の家の出でもありますから、
「医学」の道に進むんです。
この頃は、世が変わる激動期、混乱期。
西洋式の大学もまだ作られる途上で、
入学制限もけっこうゆるゆるでした。
何と鷗外、年齢をサバ読んで
「満十一歳」で東京医学校の予科に入学。
ただ、この時の医学校は入るのは簡単、
出るのは難しい、と言われるところ。
医学と言えば「ドイツ語」ですよね。
彼の同級生のドイツ語クラスのうち、
落第せずに卒業できたのは
二十四名のうち十一名だったそうです。
1881年、満十九歳で卒業。
東京陸軍病院に勤務します。
1884年にはドイツ留学を命じられる。
当時の明治政府は「富国強兵」政策です。
ヨーロッパで強いと評判の
ビスマルクのいるドイツに行って、
その強さを探ってこい!と言われる。
こうして鷗外はドイツ(プロイセン)へと
旅立っていくのでした。
1884年から1888年。
鷗外が22歳から27歳くらいの頃です。
今の感覚からすれば、すごく若い。
大学卒業後に、すぐに五年ほど
留学するようなもの。
日本の将来を背負って。
彼は、ベルリン、ライプツィヒ、
ドレスデン(ザクセン王国の首都)、
ミュンヘン、再びベルリン、
カールスルーエの国際会議出席、
ウィーン、パリ、ロンドンなど
当時の名だたる都市を回ります。
どうしても『舞姫』で
女性問題を起こしたイメージがありますが、
遊んでばかりいたわけではないんですよ。
しっかり研究し、会議にも出て、
医学や衛生学を学んでいる。
1888年に帰国。
…ただ帰国後、陸軍の医官として働きつつ、
次々と文章を発表していきます。
なんでしょうね。
元々、医学よりも文学の道のほうに
引き寄せられていたのでしょうか?
抑えきれない衝動があったのか。
有名な『舞姫』も
1890年に発表されています。
あの「エリス」との悲恋を書いた作品!
もちろん小説ですから
全部が全部実話ではないでしょうが、
実際に帰国直後に鷗外を追って
ドイツ人女性が
一月ほど来日してきたそうです。
ただ、彼の作品は『舞姫』ばかりではない。
「小説論」という文学論。
戯曲の翻訳。
詩の翻訳である「於母影」。
評論専門誌の「しがらみ草子」。
アンデルセンの小説の翻訳「即興詩人」。
「ファウスト」の翻訳。
帰国した彼は、機関車の如く
ひたすらヨーロッパ流の文章を
世の中に紹介していく。
その彼の心の中には、
ヨーロッパでの外遊、留学の出来事が
刻みつけられていたと思います。
東洋の小国から、
当時、世界最強のヨーロッパ諸国へ
旅立っていった、その経験が。
例えばドレスデンにおいては
「ナウマン象」の名前で知られている
地質学者ナウマンと論争をしています。
ハインリヒ・エドムント・ナウマン。
ザクセン王国マイセンの生まれ。
1875年に日本に招聘され、
地質研究に従事しましたが、
部下が彼の妻と関係を持ったために
(NTRというやつですね)
白昼、乱闘事件を起こしてしまって
1885年に国に帰された男です。
そのちょっと苦い思い出があって、
日本に嫌なイメージがあったのでしょうか。
講演会や晩餐会で
手厳しい論調で日本を語ったところ、
鷗外が聞きとがめて反論し、
それが新聞紙上で論争として
発表された、ということがあった。
鷗外も二十代とはいえ、
日本を背負って医学を学びに来ている
「サムライジャパン医学版」的な
留学生なのでした。
なめんじゃねえぞ、という心持ち
だったのかもしれません。
他にも、当時、細菌学の中心のベルリンで
北里柴三郎とともにコッホに会いに行ったり、
「保安条例」で東京退去処分を受けて
ロンドンにやってきていた
尾崎行雄に出会って詩を贈ったり、
鷗外、けっこう活発なんですよ。
決して女性問題ばかり
起こしていたわけではない。
子どもの頃の漢学の素養。
学生時代のドイツ語の学習。
そして実際のヨーロッパ留学での経験。
そんなものがないまざって、
文学者「鷗外」が誕生していったのです。
最後にまとめます。
本記事では、森鴎外の
「外遊」「留学」を中心に
書いてみました。
1907年には陸軍軍医総監という
軍医のトップにまで上り詰める。
彼は官僚としても栄華を極めています。
…ただ、心の中では
かなりの悩みがあったんでしょうね。
遺言の最初にはそう書かれています。
ただの島根の津和野出身の
森林太郎として死にたい。
官位も、階級も、留学のあれこれも、
文豪としての名声も、
すべてを捨てて、ただの一個人、
林太郎として死にたい。
そう言い遺した彼の作品からは、
さまざまなヒントが得られるように
思うのです。
よろしければ読者の皆様もぜひ。
まずは『舞姫』からどうぞ。
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