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『英国は永遠の友人も持たないし、
永遠の敵も持たない。
英国が持つのは、永遠の国益である』

永遠に仲が良い国は、ない。
永遠に悪い国も、ない。
今日の敵は明日の友。変幻自在。

英国、イギリスの外交は
恐ろしいほどドライ、かつ洗練されています。
歴史を学ぶとそんなことを感じます。
(本記事執筆時2022年10月では
トラス首相の辞任で騒がしいですが)

冒頭の「名言」を放ったのは
19世紀頃の英国の政治家、パーマストン。
本記事は、彼について書きました。

彼の本名は、長い。
Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston。
『ルパン三世』的に言えば
パーマストン三世、って感じです。
(本記事ではパーマストンで表記)

1784年生まれ、1865年に80歳で没。
1787年生まれの二宮尊徳(〜1856年)
1793年生まれの大塩平八郎(~1837年)
1794年生まれの水野忠邦(~1851年)
と同じ頃の人。日本は幕末初期のあたり。
その頃、イギリス政界で大活躍した人。

世界史では『パーマストン外交』
で知られます。

有名なのは『アヘン戦争』を主導したこと。
アヘン戦争と言えば、
イギリスがガチで中国(清)を倒し
従わせた、というイメージ。

インドでも強硬姿勢。
『シパーヒー(セポイ)の反乱』
『インド大反乱』とも言いますが、
こちらも強権的に弾圧している。

エジプトに対しては、
梟雄ムハンマド・アリーに対し介入、
エジプトに強国を作り上げる!という
彼の野望をくじけさせています。

幕末の日本でも「生麦事件」とか
「薩英戦争」とかイギリスがらみの
血なまぐさい事件は、
この人がからんでいる…。

こうやってトリミングして取り出すと
「パーマストンは、人か悪魔か!」
と思いますよね。
『パーマストン外交』=砲艦外交
というイメージが強い。
事実、アジアや中東ではそうだった。

…しかし、ですね。
それだけで語るのはいかにも
片面からの一方的なお話。


例えば『奴隷貿易の廃止』
主導したのは、このパーマストンだと
言われています。

奴隷貿易。…人身売買!

現在的な視点で言えば、犯罪。
例えばアフリカの黒人奴隷を
アメリカ大陸に連れていき重労働させる。
人を人と見ず、モノ・商品として扱う。

イギリスもこの奴隷貿易をやってました。
17世紀末、リヴァプールの港には、
(ビートルズの出身地としても有名)
アフリカの奴隷を買い付ける奴隷商人、
「人買い」がうじゃうじゃいた。
彼らの投資で隣町のマンチェスターが
産業革命で大きく発展したと言われたほど。

いわば奴隷は、イギリスの「売れ筋の商品」。

アフリカから奴隷をアメリカ大陸へ。
プランテーションで働かせて
砂糖・煙草・綿花をヨーロッパへ。
自分たちの工場で加工した
綿製品は、アフリカに売りつける。
大西洋の「三角貿易」!
これで、がっぽり儲けていました。

1830年、外務大臣のパーマストンは
この奴隷貿易を廃止するよう
各国に交渉して力を尽くしています。

もっとも、パーマストンが
最初に言い出したわけではない。
議員ウィルバーフォースたちが
18世紀末から「奴隷貿易に反対!」と
主張していました。

1807年「奴隷貿易法」成立。
奴隷貿易は違法化され、罰金刑が課されます。

ところが、表で禁じられたら
裏で行われるのが世の中の常…。
奴隷貿易船は見つかりそうになると
奴隷を海に突き落としてしらばっくれるなど
闇取引で続いていく。
(『カイジ』のギャンブルクルーズより酷い)

これじゃ、ザル法だ。

1833年、「奴隷廃止法」が成立。
イギリス植民地における奴隷制度は
改めて違法となり、厳罰化されました。
この奴隷制度・奴隷貿易禁止に
大きく関わったのがパーマストン
です。
奴隷から見れば、救世主のような存在です。

…もちろん、彼は「いいひと」だから
奴隷貿易を禁じたわけでは、ない。
あくまで「外交」「国益」を考えて
そうしたに過ぎない
、と思われます。

お隣のフランスには
「英雄」ナポレオンがいましたよね。
ナポレオンはいったん廃止された奴隷制度を
1802年に「復活」させている
んですよ。
けっこう、ひどい。

敵の弱みを突くのは、外交で大事なこと。

パーマストンは
「フランスは人権を大事にすると言いながら
奴隷制度を続けていますよねェ…?」
と、外交上の道具に使った。
そのための奴隷貿易反対、という見方もある。

イギリスが先陣を切ったため、
フランスも1848年には再び
奴隷制度を「廃止」にしています。

なお、当のアメリカでは
1863年、南北戦争中のリンカーン大統領の
「奴隷解放宣言」あたりまで
奴隷が普通に使われていた。
プランテーションで、必要だったから。

奴隷廃止の世界的な流れを作ったのが、
パーマストンだった、とも言えるのです。

また、彼はアジアでは「砲艦外交」ですが
ヨーロッパでは「会議外交」を展開する。

1830年、オランダから独立した
ベルギーを、会議で各国に認めさせる。
1848年、二月革命を起こしたフランスと
各国とのいさかいを仲裁する。
デンマークとドイツ(プロイセン)の
いさかいも、会議で仲裁する。
1856年にはロシアとの「クリミア戦争」を
フランスのナポレオン三世も巻き込み
有利に終戦に持ち込む…。

そう、パーマストンは攻撃だけじゃなく
地道な守備も絶品な「二刀流」。
「歩く英国外交」とも言うべき
外交のスペシャリスト!

19世紀前半、イギリスは
「世界の大英帝国」として繁栄しますが、
「パーマストン外交」のおかげなのです。

この頃の王様、ヴィクトリア女王は
パーマストンが大嫌いでした
。しかし
「彼も首相としては立派だ」と
政治家としての彼は、認めています。
人にへつらうことはせず、
政界ではロンリーウルフな感じ。
言うべきことは相手が誰であっても言う!
そんな存在でした。

1865年に彼は死去しますが、彼の死後、
ディズレーリとグラッドストンが
19世紀後半の大英帝国を繁栄させます。
その土台を築いたのがパーマストンなのです。

最後に、まとめます。

戦後日本の道筋をつけた吉田茂
戦前はイギリスの大使でした。
彼が身につけたのは、英国流の外交

「日英同盟」などで関係の深かった
イギリス外交に学ぶことも
多かったと思われます。
おそらくパーマストン外交についても
きっちり研究、
かつての敵であったアメリカ合衆国と
うまく関係を保つ外交
を心掛けたのでは。

…仮に、彼の名言を
「ビジネス上の人間関係」に置き換えても
深い示唆を私たちに与えてくれます。

『私は永遠の友人も持たないし、
永遠の敵も持たない。
私が持つのは、永遠の私の利益である』

こう書くと、ドライで、偽悪的で、
虚無的かつ利己的にも感じます。しかし
ビジネスや人間関係は移ろいやすいもの。
八方美人で振り回されるより
軸を保って自ら主導で回っている
ように
私には思われるのです。

読者の皆様はどう思いますか?

◆パーマストン外交について
もっと知りたい方は、こちらの書籍を!
君塚直隆さんの
『パクス・ブリタニカのイギリス外交―
パーマストンと会議外交の時代』↓

15~18世紀の
世界のビジネスについてはこちら↓
『スパイス、コットン、世界帝国の覇権争い』

パーマストンの後に活躍した
ディズレーリとグラッドストンについてはこちら↓
『若島津さんのまもるもせめるも
~バックオフィスの攻撃~』

ヴィクトリア女王についてはこちら↓
『賛否両論ヴィクトリア女王』

エジプトのムハンマド・アリーについては↓
『エジプトでのナポレオン、エジプトのナポレオン』

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