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エジプトでのナポレオン、エジプトのナポレオン

「兵士諸君、ピラミッドの上から
四千年の歴史が諸君を見下ろしている!」

エジプトでそう兵士に呼びかけたのは、
かの有名なフランスの英雄、
「ナポレオン・ボナパルト」だと言われます。
1769年~1821年の、輝かしい生涯。

フランス革命(1789年~)の混乱に乗じて
軍人として頭角を現し、
ついには皇帝にまで登りつめた風雲児!

ナポレオンの名は、世界中に知れ渡りました。
かの有名な明治維新の英雄、西郷隆盛
彼の伝記『那波列翁伝初編』という本を
島流しに遭った時に持っていったそうです。

…ナポレオンの出世の一つのきっかけは、
「エジプトへの出征」でした。

1798年、ピラミッドの戦いで勝利した彼は、
イギリスの「対仏大同盟」で
苦境に陥ったフランス本国を見て、

「今こそ、政権を握る絶好のチャンス!」

とばかりに、側近のみを連れて
本国に舞い戻ると、総裁政府を打倒。
この『ブリュメール18日のクーデター』
によって、実権を握りました。

もし、これが失敗していたら?
「敵前逃亡罪」「国家反逆罪」によって
処刑されていた、とも言われています。
彼は、命がけの賭けに勝ったのです。

いわば、エジプトは彼の生涯の
一大転換期のひとつの舞台。

…ですが、実は、このエジプトにも、
ナポレオンと同じような英雄がいたことを
ご存知でしょうか?

本記事では、この
「エジプトのナポレオン」を紹介します。

彼の名は、ムハンマド・アリー、と言います。
1769年生まれです。
奇しくもフランスのナポレオンと
同年に生まれた男。


この頃のエジプトは、独立国家ではなくて、
「オスマン・トルコ帝国」の一部でした。

イギリス・フランスなど、列強対立の最前線。
特に「大英帝国」と言われたイギリスは、
エジプトを、とても、重要視していました。

なぜかって?

大事な植民地である「インド」と
「イギリス本国」とをつなぐ中間地点
だから。
オスマン・トルコ帝国に通行料を払い、
商品を流通させて、貿易を振興していた。
絶対に手放せない、大事な場所!

だからこそ、フランスもナポレオンを派遣し、
エジプトを占領することによって
イギリスに打撃を与えるべく画策したのでした。

…ところが先述したように、
ナポレオンは勝手に本国に帰り、
クーデターを起こしてしまいます。

残されたフランス軍は、あわれ、イギリス軍と
オスマン・トルコ軍の手によって
やられてしまい、降伏してしまいました。

しかしここでイギリス、ちょっと欲を出す。

「これ、実は、大チャンスでは?
オスマン・トルコ帝国から
エジプトを奪って自分たちの領土にすれば、
いちいち通行料を払わなくても済むのでは…」

何と、ナポレオンがいなくなった後、
イギリスとオスマン・トルコ帝国は
仲間割れ、争いを始めてしまうのです。

この戦い、イギリスが勝つと思われましたが、
意外にも、オスマン・トルコ帝国軍が強かった。
…そう、ムハンマド・アリーが、いたのです。

彼は最初、三百人の非正規部隊の
隊長に過ぎませんでした。
しかしナポレオンとの戦いで戦功を挙げ、
六千人の指揮官へと昇進します。
『大将軍に、俺はなる!』状態。

1803年、イギリス軍が撤退した後のエジプトは、
しっちゃかめっちゃかの混乱に陥ります。

オスマン・トルコの総督と正規軍、
アリーたちの非正規軍、
マムルークと呼ばれる旧勢力の軍人たち、

彼らがそれぞれに入り乱れ、
権力闘争を繰り広げることになったのです。

さあ、風雲児ムハンマド・アリー、動きます。

①マムルークと協力して、元の総督を無力化
②マムルーク内の派閥抗争を利用して、
 マムルーク勢力を排除
③まつりあげていた新しい総督を、追い出す
④自分が新総督に推挙されて、就任

本国であるオスマン・トルコ帝国政府も、
実力者となっていたアリーを
追認せざるを得なくなってしまいました。

こうして新総督に就任した彼が
行ったことと言えば。

エジプト版の「明治維新」です。
中央集権、税制改革、国営工場、近代軍設立…。
日本で言えば
廃藩置県、地租改正、殖産興業、国民皆兵…。

ただし、こちらのほうが、
時期的にはだいぶ早いです。
エジプトでやったことを、
日本の明治新政府が参考にした、とも言えます。
「迫り来る西欧列強の進出の中で
非西欧世界が自立的な近代国家建設を目指した
最も早い試みの一つ」
とも言われています。

なお、日本でも「西南戦争」などで
旧武士たち、旧勢力が
近代国家軍に討滅されたように、

エジプトでも、このアリーの手によって
旧勢力のマムルークたちが討滅されます。
「次男のアラビア遠征軍の
司令官任命式を執り行う」という名目で、
マムルークの有力者たち400人あまりを
居城におびき寄せ、一気に殺したのでした。


こうして、1811年頃には、
エジプトでの彼の支配体制が確立していきます。

…ここで終われば、めでたしめでたし。

なのですが、フランスのナポレオンも、
最後には没落しましたよね。
「エジプトのナポレオン」ことアリーも、
栄華を極めることは、できませんでした。

彼はその後、本国トルコと独立を巡って、
何度も戦争を行うのですが、

そこに乗じたのが、イギリスなど列強各国。
列強側の視点から言えば、
エジプトのアリーもオスマン・トルコ帝国も、
どちらも邪魔、なのです。
どちらかが完全勝利して、
強大な国を作り上げられでもしたら、
誠に都合が悪い。

「彼らを殺し合わせて、力を弱めよう」

…列強の巧みな介入により、
アリーは何度も本国トルコとの戦いに
勝ったり負けたり、なかなかうまくいかず、
1849年、失意のままに
約80年の生涯を閉じることになります。

結果的に得をしたのは、イギリスです。

アリーの死後、イギリスはエジプトに
本格的に支配の手を伸ばしていきます。

1859年に「スエズ運河」の着工。
これによってエジプトの財政は
極度に悪化していき、
1876年には、英仏両国の共同管理下に。
1882年に、実質、イギリスの保護国化…。

後付けの歴史の解釈で振り返るならば、

彼は「飼い主トルコに牙をむく犬」として、
イギリスなどの列強に利用されてしまった…。
そういう側面もあった、と言えます。
後の時代の、エジプトのナセルや、
イラクのフセインなどと
同じ運命をたどった、と言えるかもしれません。

最後に、まとめます。

『19世紀前半のエジプトの歴史は、
事実上、このひとりの男の物語である』

歴史家のフィリップ・ヒッティは
ムハンマド・アリーをこう評したそうです。

フランスのナポレオンとの戦いで頭角を現し、
「エジプトのナポレオン」として
近代国家建設に生涯を懸けた風雲児。

近代エジプトの父!

しかしイギリスなどの列強に
最後まで翻弄されてしまい、
利用された生涯でもありました。

彼の生き様を、エジプトのピラミッドは
どう見下ろしていたのでしょう。

読者の皆様は、どう思われますか?
…誰かに、利用されてはいませんか?

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