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「コーヒー大国」ブラジル!

「きっと紀元前の昔からたくさん
コーヒーがつくられていたんでしょうね…」

いやいや、そんなことは、ない。

ブラジルでコーヒーがつくられ始めたのは
1727年、18世紀になってから。
まだ約300年ほどの歴史。

それ以前、ブラジルの地には、
一本のコーヒーの木もありませんでした。
なのに現在は、堂々たるコーヒー大国。

「えっ、では、コーヒーの原産地は…?」

どこだと思いますか?
本記事ではコーヒーの歴史を書きます。
ぜひ、コーヒーを片手に
お読みいただけましたら嬉しいです!

…さて、現在の私たちは
カフェはもちろん、コンビニ、自宅などで、
気軽にコーヒーを飲めますよね。

しかし昔は、気軽に飲める代物ではない。
宝石と同じくらい貴重な飲み物だった。

なぜか?

コーヒーの素晴らしさに気付いた人たちが
「門外不出」にしていたからです。
独占しようとしていたんですね。

コーヒーの原産地は
アフリカ大陸という説が有力。
エチオピア高原に自生していた
「コーヒーノキ」の果実の種を
その地の人たちが煮込んで食べていた。
これが起源(の一つ)ではと言われます。

コーヒー豆の主流は「アラビカ種」。
つまりアラビア生まれ。
エチオピアと海を隔てた向こう側、
アラビア半島の「イエメン」という国で
コーヒー栽培が広まった、と言われている。
イエメンの港の一つが「モカ」です。

アラビア半島と言えばイスラーム!

修行僧たちは眠気を覚ますため、
この豆の煮汁を飲んで頑張っていた。
この煮汁が「カフワ」と呼ばれます。
欲望を減らす飲み物という意味。
(カフェインは睡眠欲を減らしてくれる)

イスラーム圏ではコーヒーが流行、
トルコ語では「カフェヴェ」と呼ばれます。
しかし当初は、イエメンなど
限られた場所でしか産出できない
非常に貴重で謎の多い飲み物だったのです。

…ただ、隠されている、となると
持ち出したい人が出るのが人情。

1600年頃、イスラームの聖者の
「ババ・ブータン」という人が
イエメンからこっそり生のコーヒー豆を
七粒持ち出して、南インドの
マイソールというところに植えた。
以降、インド、インドネシアなどで
コーヒー栽培が広がります。

大航海時代の後です。
インドネシアはオランダが握っていた。
そこからヨーロッパにも伝播する。

…しかし最初は、
「聖なる飲み物ワインを飲めない
イスラム教徒が飲む妖しい飲み物、コーヒー」
という偏見が根強かったそうです。
当時のローマ教皇、クレメンス8世は
コーヒーを異端審問。飲んでいいかどうか?

「う、美味い…!」

彼はおごそかにコーヒーに洗礼を施し、
キリスト教徒がコーヒーを飲むことを
公認しました。教皇のお墨付きコーヒー!
こうしてヨーロッパでも広がった。
「カフェヴェ」という言葉から、
「コーヒー」「カフェ」も生まれます。

フランスでは、体に影響を及ぼす
コーヒーの「毒」を消すため、
ミルクを入れて飲む手法が生まれました。
これが「カフェ・オ・レ」ですね!

イギリスではあまりにも男性たちが
コーヒーハウスに入り浸ったので
それに対抗してティー・ハウスが発展。
紅茶のほうが定着したそうです。

それに対してアメリカの地では、
宗主国イギリスが紅茶好きのために
独立の際に「ボストン茶会事件」が勃発!
紅茶を海に投げ込んだ事件。
紅茶=イギリス=敵の象徴ということで
アメリカではコーヒーが広まっていく。

…しかし、問題があった。
需要は増えていく一方なのに、
産地が限られていることでした。

「何とかして自分たちの植民地で
つくれないだろうか?」

そう考えた国の一つがポルトガルです。
1500年、カブラルが「ブラジル」に
到達して以降、南アメリカに
広い植民地を持っていた。

ブラジル、とは、ポルトガル語で
ブラード「炭火、残り火のように赤い」
から来た言葉です。赤いという形容詞。
染料として使える
パウ・ブラジル(pau-brasil)という
「赤い木」を産出する地として有名だった。

ここでコーヒー栽培をしようともくろむ。
砂糖も栽培していましたからね。
セットにして売れば良い。

何とかして苗木を手に入れたい!
そこで目をつけたのが、
ブラジルのお隣、フランス領のギアナ。
ここから苗木を持ち出したい…!

パルヘッタ、という伊達男、
色男が登場します。
ラテンのノリ、魅力あふれる男。
彼はフランス領ギニアに赴いて、
そこの総督夫人に取り入ったそうです。

「…何とかして私にコーヒーの苗木を
もらえないでしょうか?」

しかし、そう簡単にはいかない。

彼は失意の中、帰国することになった。
送別会が行われ、総督夫人から
花束を贈られました。
彼がその大きな花束を見てみると…。
何と、コーヒーの苗木が隠されていた!

こうして彼はアマゾン川河口に
その苗木を植え、栽培することにした。
以降、ブラジルにおけるコーヒー大国の
歴史が始まっていくのでした。
コーヒーの歴史を変えた
ラブロマンス、パルヘッタ!


…ただ、コーヒー栽培は過酷な仕事です。

当初、アフリカから連れてこられた
黒人奴隷が使われていました。
ポルトガルはアフリカにも植民地を持っていた。

しかし1888年、
ブラジルで奴隷制度が廃止される。
1822年にポルトガルから独立したブラジルは、
1889年に共和政に移行したんです。その流れ。
労働力が確保できなくなる…。

そこで「移民」がそれに当てられます。

折りしも1889年、
日本で「大日本帝国憲法」が制定された。
ブラジルで共和政になった同じ年に、
日本も世界的な近代国家として歩んでいく。

多くの日本人がブラジルに移民しました。
コーヒー農園などで働くようになります。
1908年に「笠戸丸」という船で
行ったのが始まりです。
…現在では、約200万人もの日系人が
ブラジルで生活しています。


エチオピア、イエメンで始まったコーヒー。
中東、インド、東南アジアを経て、
ヨーロッパに広がり、南米にもわたった。
ついには日本人もその栽培に携わる…。

何ともワールドワイドなお話なのです。

最後に、まとめます。
本記事ではコーヒーの話を書きました。

日本のブラジル移民の話を書いた小説、
『蒼氓』(そうぼう)は、
第一回の芥川賞を受賞しています。

近年では『その女、ジルバ』という
マンガやドラマにおいて、
ブラジル移民について語られていました。

また戦後、1960年にブラジルを訪れた
プロレスラーの力道山は、
当時17歳の屈強な若者をスカウト。
これが高名な「アントニオ猪木」さん。
猪木さんは横浜生まれですが、
ブラジル移民の出身なのです。

ブラジルのコーヒーが始まらなければ
芥川賞作品も、戦後プロレスのカリスマも、
違うものになっていたかもしれない…

そう考えた時、私は、
コーヒーの香りが持つ妖しい魅力と魔力に
想いを致してしまうのでした。

※猪木さんがブラジルで
力道山にスカウトされた記事はこちら↓

※ドラマ版「その女、ジルバ」はこちら↓

※また違った切り口からの
コーヒーの歴史については
手前味噌ですが私の記事もぜひ↓
『ゲマレディン・コーヒーハウス・可否茶館』

合わせてぜひどうぞ!

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