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戦国時代、関東地方の実力者と言えば、
「後北条氏」五代の大名たち!

◆北条早雲 1456~1519
◆北条氏綱 1487~1541
◆北条氏康 1515~1571
◆北条氏政 1538~1590
◆北条氏直 1562~1591

なお、後北条氏の祖、北条早雲は、
便宜上でこう呼ばれているだけで、
名乗りは「伊勢新九郎盛時(宗瑞)」。

1523年に二代目の北条氏綱が、
「北条」と名乗り始めた。
何しろ鎌倉幕府の実力者の家の名。
同じ伊豆から勢力を伸ばした一族に
ぴったりの名字なので改名した。

(この氏綱は「勝って兜の緒を締めよ」
遺言したことで有名。
ブランディングが上手な人でもある)

1546年には氏綱の子、三代目の氏康が
「河越城の戦い」の夜襲で大勝利、
関東と言えば北条!となる。
※「それまでの関東の歴史」は
本記事の下部のリンクの記事からぜひ。

…しかし偉大な早雲、氏綱、氏康に比べて、
四代目の「北条氏政」の評価は
低いように思います。

なぜなら1590年、天下人の豊臣秀吉に
歯向かって、後北条氏を滅亡させたから。

特に「汁かけ飯」の話で知られる。

『食事の際、氏政が汁を一度、飯にかけたが、
汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。
これを見た父の氏康が「毎日食事をしながら
飯にかける汁の量も量れないとは情けない。
北条家もわしの代で終わりか…」と嘆いた』

…ただですね、このお話は「後世」から
伝えられてきたもの。
本記事では、実は凄かった
「北条氏政の治世」
について書いてみます。

氏政は次男でした。1538年の生まれ。
徳川家康は1543年生まれなので、同世代。
1552年、長男の兄が亡くなる。
氏政は、四代目として指名されます。

1559年、氏康は隠居、氏政が家督を継ぐ。
「二頭体制」を敷くんです。
(後の世で、徳川家康が早めに引退して
徳川秀忠に将軍職を譲ったのに似ています)

現在の日本の会社で言えば、
社長が早めに引退して「会長」に就任、
「若い社長」を支える感じ。

1571年に氏康が死去するまで、
「見習い期間」があった。

…しかし当時、周りは強敵だらけ。

◆越後の上杉謙信
◆甲斐の武田信玄
◆駿河の今川義元

彼らとガチでやり合わなければいけない。

ゆえに、父親の氏康は
1554年に『甲相駿三国同盟』を結ぶ。
甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川。

この時に氏政、武田信玄の娘を妻に迎えます。
「信玄の婿」なんですよ、北条氏政。
名将氏康が実の父、名将信玄が義理の父。

…ただ、1560年「桶狭間の戦い」では
今川義元が討ち死に。
氏真が後を継ぐも徐々に衰える。

同年、氏政たちにも最大のピンチが訪れます。
「軍神」上杉謙信が来襲!
そもそも上杉は「関東管領」の家の名。
「俺こそが関東を治める!」とやってくる。

1561年、謙信は関東地方の豪族たちを従え、
北条氏の拠点、小田原城を包囲します。
その数、約10万人!
氏康と氏政は約2万人くらい…。

でも、西から援軍がやってきた。
義父の武田信玄や、
当主の義元を失ったばかりの
今川氏真が助けてくれる。
持つべき者は味方。謙信は撤退!
(なお、この頃は上杉政虎ですが、
わかりやすくするため謙信で表記します)

「軍神」が去ったら怖いものはない。
裏切って謙信についた者を倒していく。
特に氏政が活躍したのが
1564年の「第二次国府台合戦」。

今の千葉県市川市にある
「国府台」(こうのだい)で争われました。
敵は房総半島に勢力を持つ里見氏。
(「南総里見八犬伝」でも有名です)

最初は押されていたんですが、氏政は
勝ちに油断した敵への夜襲を提案。
そうです、「河越夜戦」と同じパターン!
里見軍は壊滅的な打撃を受ける。
「…氏政、やるじゃないか!」と
氏康も彼を見直す。評価、爆上がり。


…ただ、情勢はどんどん複雑になる。

駿河の今川氏が衰えていく。
それを狙ったのが信玄、今川と手を切る。
氏康・氏政は武田の野心に対抗するため、
上杉謙信と手を結んだ。
「越相同盟」、越後と相模の同盟です。

怒った信玄、碓氷峠を越えて
1569年に小田原城まで攻めてくる!
これを撃退、信玄を追撃するものの
三増峠で敗北して取り逃がします。

しかし1571年、氏康が病死すると、
今度は一転して信玄と手を結ぶ。
氏政にとっては義理の父。
「甲相同盟」、甲斐と駿河の同盟です。

…こんがらがってきたのでまとめましょう。

◆1554年『甲相駿三国同盟』:謙信と戦う
◆1569年『越相同盟』:信玄と戦う
◆1571年『甲相同盟』:謙信と戦う

いかにも「戦国時代」!
昨日の敵は今日の友。その逆もあり。
氏康&氏政、外交が上手なのです。

しかも、内政も上手だった。

北条氏は租税が安いことで有名でした。
中間支配層を少なくして、
ピンハネを減らしたんです。
治水も積極的に行う。収穫を増やす。
民衆からの人気が高い。
じわじわ領土が広がる…。

さて、1578年に上杉謙信が死去すると、
その後継者として、自分の弟で
謙信の養子になった上杉景虎を支援します。
「越後乗っ取り」を仕掛ける。

…ただこの策略は、景虎のライバル、
上杉景勝が勝利して失敗しました。
武田勝頼が景勝と手を結んだんです。

怒った氏政、武田家との同盟を破棄。
徳川家康と同盟します。
織田・徳川・北条を敵に回した武田家は、
1582年に滅ぼされました。

戦国では周囲を全部敵に回すと危険なのです。

ただ、この年に「本能寺の変」勃発。
織田信長が急にいなくなる…。
氏政、このチャンスに
旧武田領に攻勢をかけます。
北関東にも手を伸ばす…。

というわけで、1585年の頃には
「相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野と、
常陸・下野・駿河の一部」を手中に収めた。
「神奈川・伊豆・東京・埼玉・千葉・群馬、
茨城・栃木・静岡の一部」
です。
まさに、関東の覇王!

氏政は、戦国の世を巧みに泳ぎ、
後北条氏の最大領土を手にしたのでした。

最後にまとめます。

本記事では北条氏政の
実は凄かった業績を書いてみました。

…ただ1590年、ご存知の通り、
秀吉の圧倒的な兵力によって小田原城陥落。
この結果、氏政は「愚将」として
後の世に語り継がれていきます。

◆西の朝廷 VS 源頼朝の鎌倉幕府
◆西の幕府 VS 室町時代の鎌倉府
◆西の秀吉 VS 後北条氏の氏政…

「関東の誇り」を胸に戦った氏政は、
西の軍勢に敗れて散った。
その領土を受け継いだのが徳川家康。

彼は、後北条氏たちが整備した土地を
本拠地にして江戸幕府をつくる。
後には西の豊臣家の一族を倒して、
約265年にもわたる江戸時代をつくります。
氏政の無念を家康が晴らした形。

現在の「東京一極集中」の土台でもある。

…江戸幕府や東京の繁栄の土台は、
実は北条氏政にあったのでは?


私は、改めてそう思ったのでした。

※北条氏康の「河越城の戦い」までの
関東の歴史はこちら↓

合わせてぜひどうぞ!

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