見出し画像

お城の天守閣や公園の展望台から
広々と下のほうを見下ろした時、
何となく偉くなった気持ちに
ならないでしょうか?

〇〇タワーに登って
はるかな下界を眺めた時、
自分がまるで天空の為政者のような
錯覚に陥らないでしょうか?

「下の者はあくせくと
働いている、自分とは違う」


そのような「錯覚」を覚えてしまう。
自分自身も実はその「下の者」であり、
普段は上から見下ろされている存在
かもしれないのに…。

「なんとかと煙は高い所がお好き」
とは言いますけれども、
このような「錯覚」はあり得ます。

本記事では高い所から見ることの
利点と欠点について書きます。

まず利点から。

高い所から見下ろす、
すなわち「俯瞰」することによって
物事がよくわかる、という
点はありますよね!

戦国大名たちが天守閣や、
山城でも高い所に居を構えることで、
「どこから攻めてくるか」がわかる。
すなわち、何かの襲来、災害を
いち早くつかむことができる。

気象衛星などもそうです。
宇宙に衛星を上げて、
空から雲などの様子を見る。
私たちが台風の位置をつかめるのも、
上から見下ろす衛星があるからです。

つまり、危機管理において
「上から見下ろす」ことは有用。


逆に考えれば、下から、地上からでは
見えないものがある。
平面的に、タテとヨコの二次元だけでは
自分が実は敵に囲まれていても
それに気付けないことはある…。

高さ、という三次元の視点を得て初めて、
つまり「俯瞰」して初めて、
「ここにいたのか!」
「自分はこのような状況なのか!」

ということがわかる。
いま流行りの
ドローンの視点とも同じですね。

…ここで「メタ」という言葉を
思い浮かべた人も
いるかもしれません。

メタ、とは哲学や倫理学、
数学、言語学などで用いられる言葉。
哲学者アリストテレスの著書、
『メタピュシカ』から来た言葉。
漢字で言えば「形而上学」です。

アリストテレスは学問を細分化して、
分類しています。
これは「上から見下ろす」ことを
しないと無理ですよね。
狭い蛸壺、専門分野だけではわからない。

メタとはもともとは古代ギリシア語で
「あとに」という意味です。
これが「超越した」「高次元の」という
意味で使われるようになったのは
『タ・メタ・タ・ピュシカ』
直訳すれば
『自然に関するものの後に』
という著書を書いてから。

この本のタイトルが
『メタピュシカ』と短縮形で
呼ばれるようになった後に、
「自然学を越えたもの」という意味で
捉えられるようになったそうです。

…私はここに深い示唆があると思う。

本来であれば
「あとに」という意味で使われていた
「メタ」という言葉が、いつのまにか
「超越した」「高次元の」
という意味で短縮して使われていった…。


本来であれば
「あとについていって初めてわかる」
という、地道な地を這うような調査、
タテヨコ二次元の走破を経てやっと
高さという三次元、高次元のことが
腑に落ちるはずなのに、

それを「すっ飛ばして」最初から
「メタ的に」「高い所から」
「見下ろす」ことになりがち…。


ここに、欠点も存在するように
思うんです。

ここまでは「利点」を書いてきました。
ここからは「欠点」を書いていきます。

一言で言えば、地に足がついていない。
ふわふわと「浮いている」ことに
なりがちなこと。

すべてこの世界のことがわかっている!
俺は超越者だ、超能力者だ!
見える見える、すべてつながる…!

そのような錯覚は俗に
「中二病」などとも呼ばれますよね。
ほら、思春期のあたりって
「言われもない全能感」
持ったりするじゃないですか。

それがいわゆる「世間」を知る中で
だんだんと「地に足をつけていく」
自分というものが、わかってくる。
後から振り返って
「若気の至りだった」などと赤面する。

読者の皆様の会社や組織にも、
このような「浮き上がっている」人は
いないでしょうか?

例えば、苦労知らずのボンボンの
三代目社長的な人が
突然、現場をまるで知らないような
わけのわからないことを言い出す。

例えば、超越的な「〇〇アドバイザー」
的な人が、「ここはこうしたらよい」と
あたかも三国志演義の諸葛孔明気取りで
軍師っぽく夢想を語り出す。

それが「なるほど!」と思える
斬新なアイディアなのか、
「世間知らずが!」と罵りたくなる
誇大妄想なのかは、わかりません。
わかりませんが、浮き上がっている、
浮わついている人の意見は得てして
地を這う者の賛同を得にくいもの…。


もう少し例を変えれば、
「経営者の孤独」なども
この部類に入るのかもしれません。

従業員の立場からは
わからないことがある。
従業員には言えない
トップシークレットもあります。

全体を舵取りする人は、
部分の最適にこだわってはいられない。
それを誰もわかってくれない!
上から見れば一目瞭然なことが、
下から見ると、現場から見ると
ただの締め付けだと捉えられてしまう…。

さて、ここまで踏まえて、
「利点」と「欠点」を
メタ的に見てみることにします。

良いとも悪いとも言えないんです。
どちらもありますから。

上から見ないとわからないことがある。
でも上から目線を醸し出し過ぎると
「下」の人から反発をくらう…。

大事なことはエレベーターのように
「上下運動」ができるかどうか、
自覚できているかどうか、ではないか?
「対話」などで常に自分が
錯覚していないかを確認することでは?

あまりにも天守閣に居座っていると
象牙の塔に引きこもるようなもので
「上様」と呼ばれ、
大名行列で権勢はあるのに
心の中では孤独に陥る…。
(天守閣は権力の象徴でもありました。
小説『白い巨塔』も象徴的です)

一方で、あまりにも地上や
現場に固執し過ぎれば
自分の位置がまったくわからず、
災難が迫っていることに気付かない。

将来的なことも、見通せない…。
舵取りができない…。

最後にまとめましょう。

本記事では高い所から見ることの
利点と欠点について書きました。

読者の皆様はいかがでしょうか?

私も「空飛ぶ鳥の目」
妄想のフィクションを書き過ぎたり、
「地を這う虫の目」
暗中模索・七転八倒をしがちですので、

スクワット的な「上下運動」を意識して、
また「対話」で体幹を鍛えて
強靭な足腰を身に付けたい、と思います。

※須原一秀さんの『超越錯覚』もぜひ↑

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!