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2023年の大河ドラマ『どうする家康』で
家康は西の信長と同盟を結び、

信長は西へ、家康は東の今川家や
武田家と相対することになります。
さらにその東の関東には北条(後北条家)。
後に家康はこの北条家の領地に国替えとなり、
「江戸時代」の基礎を築いていきます。

しかしこの家康が入ってくるまでの
関東地方は、どうもマイナーでして。
信長や秀吉が「西」に行っちゃうので、
ドラマの舞台に出てきにくい…。

そこで本記事では、あまり知られていない
『戦国時代の関東地方』について、
私なりに取捨選択して書いてみます。

1467年「ヒトノヨムナしい、応仁の乱」。
これに先駆けて関東は戦国時代に突入します。

誰トクか分からぬ「享徳の乱」が起きた。
1455年に始まる関東の戦乱です。何と、
1483年まで三十年近く、続いたのです。

この乱の中、関東地方を統括していた
「鎌倉府」は、その機能を失っていく。

「鎌倉公方」であった足利氏は、
今の茨城県の古河市の「古河公方」と
伊豆半島の「堀越公方」に分裂…!
その下で「関東管領」を務めた上杉氏も、
「山内上杉氏」と「扇谷上杉氏」に分裂…!

もうこの時点で、何が何だか。
場所を確認してみましょうか。

関東平野のど真ん中の古河に「古河公方」
伊豆半島の堀越には「堀越公方」
今の群馬県(上野)に「山内上杉氏」
埼玉県(武蔵)の河越に「扇谷上杉氏」

あと、各地の武士たち。
偉い人たちが分裂したので、
俺たちも勝手にやろうぜ、という感じ。
今の茨城県のあたりに、佐竹氏や小田氏。
栃木県には、宇都宮氏や那須氏。
千葉県には千葉氏、真理谷氏や里見氏、など。

もう、しっちゃかめっちゃかの乱世。

…関東地方在住以外の方には馴染みが無くて
「なんのこっちゃ」だと思いますので、
とりあえず一番偉い「足利氏」が分裂、
次に偉かった「上杉氏」も分裂し、
「その他大勢」もいる。

三国志ならぬ「四国志状態」だと
便宜的にお考え下さい。

さて、このバラバラ過ぎる関東に、
ある男が現れるんです。後の「北条早雲」
元の名は「伊勢新九郎」です。
(わかりにくいので早雲で統一します)

正体不明の素浪人と言われていましたが、
最近の研究では、この早雲、
室町幕府の将軍に仕えた「申次衆」
高級官僚であった、とされています。

彼のお姉さんが、関東の西の駿河、
今の静岡県の今川氏に嫁いでいたんです。
その縁もあって、今川家の後継者争いを
調停するべく、駿河にやってくる。

彼は姉の子ども、自分の甥である
「今川氏親」を無事に、
今川家の後継者にすることができました。

これが、1487年のこと。
応仁の乱開始から、約二十年後。
そのお礼として、甥の今川氏親から
「興国寺城」という駿河東部にある城を
プレゼントされます。今の沼津市あたり。


…沼津市、と言えば、東海道新幹線の駅、
「三島駅」のすぐ西、です。

東海道新幹線で言えば、東に行くと、
「三島駅」「熱海駅」「小田原駅」
「新横浜駅」「品川駅」そして「東京駅」。


このルートに沿って、早雲ならびに
彼の子孫たちは関東に進出します。
背後の西は、自分が面倒を見た甥っ子、
今川氏親がいるので大丈夫。

初代早雲は、堀越公方を倒し伊豆を押さえ、
さらに「小田原城」を奪取しました。
後を継いだ二代目の氏綱は、
さらに東に向かおうとして考える。

「偉そうにしている旧勢力たち、
公方の足利氏、関東管領の上杉氏たちと
対等に対抗していくためには、
『俺は偉いぞ』とわかる名前にしなきゃ…」

はい、そこで思いついたのが、
昔、鎌倉幕府で偉かった人たちの名前です。
「北条氏」!
2022年大河ドラマの『鎌倉殿の13人』で有名。

こうして伊勢氏綱は「北条氏綱」を名乗ります。
ブランディング。
鎌倉幕府の北条氏と区別するため、
「後北条氏」と歴史学では呼びます。

びっくりしたのは、関東の人たち!

「えっ、北条…。ほ、北条、だと?!」
「関西出身だろ、ニセ北条だよ、あいつら」
「名前ロンダリングだ、やっつけてやる!」

「外」の新興勢力、敵が現れれば、
「中」の敵は喧嘩を止めて団結するもの。

分裂していた山内・扇谷の上杉家は
「反北条同盟」を結成します。
江戸城、岩付城、河越城、毛呂城などで
(今の東京や埼玉県のあたりで)
取ったり取られたりのバトルを展開!

ただ、ここで大問題が出てきまして。

今川家が代替わりし、氏親の後、氏輝、
次いで義元(桶狭間でやられる人)
の代になると、
今川家は甲斐の武田家と
同盟を結んでしまうんです。
北条家は、武田家と敵対していた。
ゆえに、今川家と縁が切れる。

見方を変えれば、北条は今川から独立した。

こうして四面楚歌状態に陥りながらも、
氏綱は確実な土台を築いていったのです。
それをさらに発展させたのが、
後を継いだ三代目の北条氏康。

1546年、いまの埼玉県の川越市にて
『河越夜戦』が行われました。
「桶狭間の戦い」「厳島の戦い」と並ぶ
「日本三大奇襲」とも呼ばれた戦い。

味方は、約八千名。新勢力の北条氏側。
敵方は、約八万名。旧勢力たち連合軍。
敵は約十倍、勝ち目がない…!

しかし、氏康、勝つんですよね、これが。
夜に奇襲をかけたんです。大成功。

この戦いの敗戦により、旧勢力である
古河公方、山内・扇谷上杉家の勢力は
急速に衰えていきました。
「関東の第一人者は北条」。
それを決定づけた戦いでした。

さらに氏康は
今川義元、武田信玄とも同盟を結び直し、
西の守りも盤石にした。

やっつけた旧勢力、関東管領の上杉たちが
越後の長尾景虎のところに逃げ込んで、
軍神「上杉謙信」が爆誕、
小田原城に攻めて来たりしましたが、
それすらも、守り通した。

こうして三代目の氏康の手腕により、
後北条氏は万全になっていったのです。
後は周辺、宇都宮氏や那須氏、
佐竹氏や里見氏なども抑えれば完璧…。

しかし、タイムリミットが来てしまう。

その後の五代目の時に、
豊臣秀吉によって滅ぼされてしまう。

地方では敵なしの戦国大名も、
全国規模の英雄にはかなわない。
秀吉、天下統一。1590年のことでした。

最後に、まとめましょう。

滅ぼされた後北条氏の領地は、
後に徳川家康に渡されます。

「地方ローカル」だった徳川家は、
この広大な関東地方を治めることを通して
「全国支配のノウハウ」を
得ていったのではないでしょうか?

ばらばら状態の関東に乗り込み、
まとめていった後北条氏のシステム。

これに学ぶことが多かったと思います。
江戸幕府の政治に、生きていった。
そう、後北条氏は独自の法律を定めて
しっかり領地を治めていたのです。

徳川家康は、武力は武田家に学び、
文化は今川家に学び、
そして内政は、北条家に学んだ…。


そう考えた時、戦国時代の関東の歴史は、
後の江戸時代の歴史、日本の歴史にも
深く関わっている、とも言えるのです。

…このあたりの歴史に興味が出てきた方、
ゆうきまさみさんの漫画
『新九郎、奔る!』を、ぜひどうぞ。

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