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哲学カフェ「エシカルな食について議論しよう!」

「何を食べ、何をたべないかは個人の自由。他人にとやかく言われたくないです」

「それでいいの! 食選択の自由は最大限尊重されるべきだとしても、その自由が社会や環境に悪影響を及ぼす場合は制約を受けて然るべきだと思いませんか」

「社会や環境にマイナスって本当なの? そうならば、どの程度? なんだかピンとこない!」
………………

昭和女子大現代ビジネス研究所の「食プロジェクト」が開催した哲学カフェ。学生3人と社会人3人が月1回のペースで夕方、飲み物とお菓子を持参して教室に集まり、倫理の観点から「何を食べるべきか」という問いに取り組みました。

全6回のカフェを終えて、「身体《からだ》だけでなく、社会や環境にも優しい食」という考え方を受け入れ、行動につなげるには、生産者と顔の見える信頼関係を築くしかないと思うようになりました。その一歩を踏み出さないと、食べるものが本当にエシカルなのかという疑念は払拭できないような気がします。

SDGsで高まる「食べる」の倫理を問う声

食品の一次生産から加工、流通・販売、消費までの一連の流れ(フードチェーン)のなかで、人びとの健康や労働条件、公正な取引、地球環境、アニマル・ウェルフェア(動物の権利)などへの配慮が足りない非倫理的な行為が行われていないか。
 
国連が提唱する「持続可能な開発目標」(SDGs)の掛け声に押され、「食べる」の倫理を問う声が世界中で高まっています。SDGsに対する感度が低い日本でも、エシカルな食品を選択し、持続可能な食の実現に近づけようという取り組みがにわかに注目を集めています。

令和元年度SDGsを意識した食料消費行動についての調査結果報告書(農水省、2020年)を基に作成(数字は四捨五入)。


 では、あなたは?
 
哲学カフェのメンバー6人は、毎回、対等な立場で対話しながら、そもそも自分はエシカルな人間なのか、そうならば、どのような食行動をとるべきかを自問自答しました。

主要テーマは、以下の通りです。

  • 食選択とアイデンティティ:人は、何を食べるかで決まるのか(You are what you eat) ? 何を食べているかが分かれば、その人の出自や性格、教養、人となりまで分かる?

  • 「食べる」は、社会的営みなのか?:何を食べるかは単に個人(消費者)の好みの問題なのか。それとも、食べ物を口に入れるまで大勢の人がかかわっていることを認識すべきなのか(No one eats alone)?

  • 食品ロス、フェアトレード、肉食とビーガン:それぞれ食選択の際に配慮すべきか!

  • 食選択と制裁:ウクライナを侵略したロシア。ロシア産水産物は食べるべきではないのか?ボイコットすべきか?

  • 食を通じてより良い社会をつくろう(エシカルフード)という考え:そもそも夢物語?実践する気はある?


こうしたテーマをあえて堅苦しい言葉で括れば、「食選択の実践倫理学(応用哲学)」といったところでしょう。
 
でも、専攻の異なる学生や異分野の社会人の率直な意見と自由な討論を引き出すため、リラックスした雰囲気のなかで語り合う哲学カフェという形式にし、出来るだけアカデミックな用語や概念を使わないことをルールに掲げました。

哲学カフェのメンバー

その狙いは、ピンポーン、当たり! 参加者の本音がポンポン飛び出し、大学1年生と昭和生まれの社会人が互いに学び、啓発し合う場面も多々ありました。

肌身に感じにくい「社会や環境に優しい食」

「消費行動を通じて社会や環境のために何かできれば」。みんな、そんな気持ちは持っているようです。さすがに、倫理や道義なんてどうでもいいという人はいませんでした。
 
ただ、食選択に関する限り、自分や家族にとって食品が安全か、健康的かどうかという基準が最も重要だ、というのが参加者のほぼ一致した意見でした。

一方、フードチェーンの各段階で社会や環境に悪影響を与えているかどうかを基準に食べるものを決めるという選択については、「そう言われても、いま一つピンとこない」といった感想が多かったです。なかには、「牛のゲップに含まれるメタンと温室効果の関係を意識して食選択を行うなんて想像もつかない」という本音も。
 
同様に、「未来世代への責任」を自覚して食品ロスや環境破壊などに配慮して食選択すべきだと言われても、「イメージできない」といった主張もしばしば聞かれました。
 
「顔も分からぬ未来の人びとにどう責任を負えというのか!」。「次世代のために貢献することにやぶさかではないが、本当に貢献していると実感できる社会的仕組みが必要だと思う」。
 
食農研究者でコンサルタントの山本謙治氏は、商品のトレーサビリティ(追跡可能性)を例に、こう指摘しています。

日本では、消費者が「最も保護されるべき存在」になっている節がある。だから、トレーサビリティに求められるのは流通段階を遡って、生産者や流通業者が消費者の利益に反することをしていないか? を確認することに主眼が置かれている。対してヨーロッパ社会は消費者保護ではなく、非倫理的な社会問題が引き起こされていないかということを観るための仕組みとしてトレーサビリティをとらえているということだ。この2つは、まったく違う方向を指している……。ひと言でいえば「利己的(自分のため)か利他的(他者のため)かの違い」といえばいいだろう。

山本謙治『エシカルフード』(角川新書、2022年)26頁


この分類に従えば、カフェ参加者の倫理観念は、日本的な観念の典型だと言えるかもしれません。彼我の違いがどこからきているのかは分かりませんが、食に限定すれば、利己的になりがちなのはごく自然の流れで、それが常人の皮膚感覚ではないでしょうか。
 
というのも、同じ私たちに身近な消費財でも、食品は衣料品や生活雑貨と質的に異なり、口から体内に入れるからです。健康リスクの大小を嫌でも意識せざるを得ません。

児童・強制労働や食品ロスなど社会・環境への悪影響に配慮して食選択することは、頭では良いことだと分かっていても、食べるときにリアルな実感が湧かず、かなりハードルが高い。
 
だから、「食」に利他的な倫理を問うならば、「本当にエシカルだと実感できる仕組みをデザインする必要がある」という参加者の主張は本質を突いていると思います。そうでないと、持続可能な食を求めるモチベーションを維持できないでしょう。

地域の自然と資源に根差す小農ネットワークの勧め

洒落たエシカルショップ、オーガニック食品、エコラベルのついた水産物、森林や有機、フェアトレードを保証する認証ラベル、地産地消の表示、環境や人権に関するエシカル基準の公表……。私たちの周りを注意深く見渡せば、食品がエシカルかどうかを見分けられる、とされる仕組みはあちこちにあります。

英国では、食品のエシカル度を独自の観点から採点し、安心できるブランドと避けるべきブランドを公表したり、スーパーをランキング化したりする取り組みもあるようです。

問題は、こうした活動に対する懐疑の目が半端でないことです。たとえ国連機関や権威あるNPOが科学的データを駆使して作成した採点基準でも手放しで受け入れることはできない、というのが参加者のコンセンサスでした。

企業の自己宣言や業界団体のラベルやマークだけでなく、国や自治体の認証制度も鵜呑みにできない、と不信感を募らせています。「一抹の不安は残る」と言うのです。

「第三者機関によるお墨付きを得たものでも公平・中立か怪しい。そう見てておいた方が無難だ」、ましてや、「企業や一般社団法人の取り組みは利益優先で、私たちを欺いているのではないか」。

要するに、中身の伴わない「見せかけのエシカル配慮」(エシカルウォッシュ)ではないかと半信半疑なのです。消費者をだました食品偽装事件やエコ偽装問題の続発がその理由の一つなのかもしれません。

では、どうすれば「上辺だけでは」という不信感、猜疑心を取り除くことができるのでしょうか。

残念ながら、ここで哲学カフェは時間切れになってしまいました。続けていれば、本音トークなので、きっと、めっちゃおもしろい気づきや刺激的な意見も飛び出していたに違いないですが、あえてカフェ推進役を務めた筆者の見方を付け加えておきます。

参加者の「権威」に対する根深い不信感を取り除くには、できるだけ生産現場に近づき、誰がどう生産しているのかを体感するしかない。みんなの意見を聞いて、そんな思いに駆られました。利潤追求をめざす企業の商品に依存している限り、食べるものが本当にエシカルなのかどうかを見分けることは難しい。

儲けるために商品を売る企業が消費者の需要を喚起しようと、時流のSDGsやエシカルに配慮していると訴えてくるのは、資本主義社会である以上、当然の成り行きとも言えます。政府による認証制度の基準と運用の厳格化だけでは心もとないです。「紅麴」問題で批判されている、アベノミクスの一環として導入された「機能性表示食品」制度を見るまでもなく、国も「経済成長」を無視できません。

だから、食品を消費者に届けるサプライチェーンは、短ければ短いほどベターです。理想は、家庭栽培で多品種をちょっとずつ植えたり、裏庭で養鶏養豚したりするなど自分で動き、考えることです。

食農経済学者の平賀緑氏は、地域の家庭栽培、たね屋、小農・家族農業、八百屋、パン屋、豆腐屋などと食べる人がゆるやかにつながる小規模な食農ネットワークの構築を提唱しています。その過程で、地域の自然と資源をみんなの共有財産として協同で所有・管理したり、保護したりする「コモンズ」が生まれることもあるでしょう。相互扶助的な都市農業も考えられます。

ただ、こうした取り組みを続けるためには、私たちのライフスタイルを思い切って転換する必要があるでしょう。私たちがどっぷり浸かっている、市場での交換価値に依存する大量生産・消費(と大量廃棄)に慣れきった生活から、使用価値を重視し、自分たちが必要なものを必要なだけ生産する生活へ――と。

新年度のカフェ:エシカル・レシピに期待

何が正しいのか。今回の哲学カフェを通して、エシカルな食とは簡単なことではない、と痛感しました。何に価値を見出すかは人それぞれです。そもそも論を言えば、国連が掲げるSDGsの目標をめざすことが正しいのでしょうか。

「SDGsは『大衆のアヘン』である!」と断言する経済思想家もいます。斎藤幸平氏は、SDGsについて「アリバイ作りのようなもので、目下の危機から目を背けさせる効果しかない」、その数値目標を達成する程度では気候変動を止めることはできないとし、もっと大胆なアクションを起こさなければならないと訴えています。

食プロの調理実習


哲学カフェは、あくまでも各参加者の気づきの場です。他者と対話することで自分の価値観に気づくことが狙いで、グループとしての合意形成や結論をめざしていません。

新年度のカフェでは、各人の気づきを反映したエシカル・レシピをつくり、みんなで試食できれば、と期待しています。もちろん、「そんなものは自己満足に過ぎない」という意見が透けて見えるレシピもありです。


〈参考文献〉

秋山卓哉「食選択の倫理化」(前編)三菱UFJリサーチ&コンサルティング、2021年12月22日、 https://www.murc.jp/library/column/sn_211222/
森映子『ヴィーガン探訪』(角川新書、2023年)
平賀緑『食べ物から学ぶ現代社会』(岩波ジュニア新書、2024年)
斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)
山本謙治『エシカルフード』(角川新書、2022年)



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