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【自己紹介文】薬を憎んだ私が薬剤師になろうと思った理由

「2021年」
この時期に病院に戻りたいと思う気持ちはなんなのか。
10年以上病院の薬剤師を続け、在宅医療に興味を持ち調剤薬局の薬剤師になり3年。
コロナウイルスが蔓延するこの世界。
働くからには自分の能力を使って仕事をしたいと思っている。
欲を言えば、誰かの役に立つ人間でありたいと思っている。

専門職である限り、私の知識は私だけが持っていても仕方がない。
誰かに利用してもらわないと意味がないと思って進んできた。
私が勉強するのは自分の為ではない。
私と出会う、私と出会ってくれる人たちのために準備をしている。
そう考えている。

私の母と妹は現在の医療がないと生きていけない人たちだ。
医療の発展があったから生きていけている。
命がある。

私が薬剤師になろうと思い立ったのは薬に「感謝」し「憎んだ」過去があったからだ。
妹は幼い頃から「てんかん」だった。
「てんかん」とは異常な電気信号が脳に発生し意識を失ったり、朦朧としたり、痙攣を起こす病気だ。
様々なタイプがあるが、妹は突然意識を失うタイプであった。
今まで何度も命を落としそうな場面があった。
お風呂場で発作を起こし、頭から浴槽に落ち溺死しそうな状況。
物音に気づいた私が、硬直した身体を引き上げた。
今、思い出しても血の気が引く。

小学生から中学生までは、ほとんどを病院で過ごす日々。
両親は仕事が終わって病院に駆けつけ、私は家で一人過ごしていたようだ。
「ようだ」と書いたのは、実はあまり記憶がない。
別に、そんな自分を可哀想だとも思ったことがない。

高校生になった妹は自宅で過ごすが、毎日が発作の日々。
夜、隣で寝ていても、妹が息をしているか確認するため私は途中で何度も目を覚ましていた。

妹が病気のせいで私が寂しい思いをしたとも思ったことがない。
それが私の日常でしかなかった。
私の根底、深いところで、妹が大好きという気持ちしかなかった。
生きているだけで嬉しいと思える存在である。

しかしそんな環境が、私が医療というものに、医療者というものに不信感を持たせていった。
妹がお世話になっていたのは研究機関としての役割をもつ大病院だった。
幼い私には、そんなことわかるはずもない。
しかし、妹がなにやら人として扱われていない感覚を持っていた。
柔らかい、温かい、大切な人として扱われていないような感覚があった。
知識がないものは無力だ。
これがこの業界の常識かと思うこともあった。

薬を取っ替え引っ替えなんの説明もないまま変わっていく。
何かが進んでいく。

「このままでは妹を守れない。」

それが私の薬剤師になる動機だった。
妹を助けてくれるはずの希望の「薬」が妹の「毒」になっている。
中学生の身体に力が入らず、一人で起き上がりトイレに行くこともできない。

「薬」とは一体なにものだ。

そして高校2年生の冬、進路変更する。

それまでは看護師になるための進路を歩んでいた。
小さい頃からなぜか看護師になりたいという夢があった。
「手に職があるのはいいよ〜」と言っていた母の洗脳だったような気もするが、自分でも納得してその道を進んでいた。

薬剤師になるにはどうすれば良いのか調べる必要があった。
現在の世の中とは異なり、スマホ1つでは調べられない時代。
大阪の公立高校の進路相談室から情報を得た。

しかし、高校生の私にはどうにもできない問題が生じてしまった。

「学費問題」

残念ながら国立大学の薬学部を受験できる頭脳を持ち合わせていなかった。
私立の薬学部では莫大な学費がかかることが判明。
年間200万円×4年をどう両親に伝えるか。
私の家庭は裕福ではない。
それは知っていた。
幼い頃は4畳半と6畳の風呂なし文化住宅に住んでいた。
お風呂屋さんが休みの月曜日は、湯沸かし給湯器からお湯を運び、タライの中で身体を洗っていた。

この環境が、私が働く理由、どうにか貧乏を脱出したいという原動力にもなっていた。

とにかく母に相談してみた。
私は何か重要な話がある時は「お話があります。ここに座ってください。」と母を箪笥の前に座らせて対面で話し合う習性がある。
と、あとで母に聞いた。

母は結婚資金として貯金をしていたが、父とは結婚式を挙げていない。
中学を卒業し15歳で鹿児島県の小さな島から滋賀県へ集団就職し現在に至る。
何十年もコツコツ貯めてきた。
そのお金を出して貰える事になった。
今、思えばもの凄い投資だと思う。
親というものは子供に自分のお金をこんなに簡単に投資するものなのか。
働いてわかる親の凄さ。この歳になって改めて感じる親の大きさ。

昔から苦労し続けている母に贅沢させてあげたい。
楽をさせてあげたい。
私が働く理由の一つである。

自分で稼げるようになってから、母を旅行に連れて行き「大株主さま、いつもありがとうございます。」などと冗談めいて言っているが、本心は冗談ではない。
心の底から感謝している。

大きな進路変更をしたが、薬学部受験に必須科目である化学Ⅱを選択していた自分に感謝する。
担任に進路変更を伝えるが、一言目に「無理だ。」と言われた。
小学生の頃から、特別ではないがそこそこ勉強はできていた私。
否定されたのは初めてだった。

振り返れば、私が担任でも「無理だ。」とは言わなくとも「かなり難しい」「本気なのか」くらいは言っていたかもしれない。
その頃の薬学部人気は凄まじかった。簡単に入学できない倍率の高さ。
若いエネルギーと世間知らずは恐ろしいパワーを発揮する。

だが、そう甘くはなかった。
ことごとく落ちつづけ、自分を全否定された。
午前10時に郵便屋さんがポストに何かを入れていく音が恐怖でしかなかった。
受験の法則。
不合格はハガキ、合格は封筒。
ゴソゴソと大きな封筒がポストに入る音は、その年の冬には聞こえなかった。

なんとも親不孝だが、1年浪人させてもらうことになった。
プラス100万円である。
今まで塾には一度も通った事がなかったが、初めて予備校というものに通った。
しかし、お金がないことは百も承知。

朝マックのバイトを始めた。
早朝は時給が高いので助かった。
朝6時から10時までの4時間、阪急梅田駅前のマクドナルドで毎日働いた。
5時台の阪急京都線梅田行きの電車に乗り通学する。
10時に上がりそこから予備校へ授業を受けに行く。
クラス制だったので、予備校仲間もできた。
今でもあの頃の仲間には感謝している。
気持ちが緩みそうな時も、夜遅くまで自習室で勉強し、束の間の夕食タイムで楽しい時間を過ごせた。

残念ながら関西圏の大学には合格できず。
奨学金を借り、バイトを掛け持ちしながら、金沢で大学生活を送ることになった。
自分が大阪を出て暮らす日がくることなど想像もしていなかった。
しかし、この時に大阪を出ていなければ、他の土地に住むという選択肢は人生の中で生まれたのだろうか。私の人生を振り返ってみても、貴重な分岐点であった。

価値観を大きく変えることのできた4年間と仲間に感謝する。

そして、私の薬剤師としての人生が始まった。

薬に興味があるならなぜ研究者にならなかったのかよく聞かれるが、私は薬と患者さんを繋ぐ仕事がしたかった。
わけも分からず進む治療が嫌だったし、患者や患者の家族として、気持ちを伝える隙もない医療が嫌だった。

医療の世界はプロの集団である。
それぞれの職種が様々な学問を学び集まっている。
医師がリーダーとなりそれぞれに指示を出す。
私の勤めてきた職場は恵まれていた。
患者さんの想いを大切に考え、行動するスタッフが多かった。
その中で薬剤師としてどのように役割を果たすか考え続ける日々が始まる。

一般的には病院内の薬剤師と会話する機会は少ないだろう。
最近では、手術前や入院前に飲んでいるお薬を確認するために、外来で出会う機会も増えてはきているが、基本的に入院する機会がないと出会うことはほとんどない。

正直に言って、病院内での薬剤師の活動は、病院と薬剤部の考え方によってかなり幅がある。
どういう働き方をしたいか真剣に考えて病院を選び就職することが肝になる。

私が就職した頃は、大きな機関病院でさえもまだ電子カルテはなく紙カルテの時代であった。
当時、病棟で薬剤師がカルテを見ること自体が難しいと大病院に就職した友人が嘆いていた。
その病院では、医師と看護師が全ての世界。
他の職種はカルテに触ることでさえ困難で、異様な空気になると言っていた。

病院薬剤師を目指している学生の方が読んで下さっていたら誤解を解いておきたい。
昔の話である。

活動の幅があるのは現在も変わらないので、先輩などからの情報収集をしっかりしておいた方が良いですよ^^

現在も続く薬剤師変遷の時代。
病棟に出るか、薬剤部内に引きこもるかの分かれ道を経験し、試行錯誤で患者さんと医療スタッフに近づいていった。

プロの集団の中では「役に立つヤツ」にならなければ不要だ。
学校ではない。
自分の行動が全てである。

薬剤師がいなくても正直医療は成り立つ。
が、質と安全性を高めるには必要不可欠であると自負している。
ここは間違いない。
薬学を学んできた私たちがみている世界はミクロの世界だ。
化学反応を頭で想像しながらデータに基づき行動する。

食事が摂れない重症患者さんは高カロリー輸液という糖質、アミノ酸、電解質、ビタミン剤が全て含まれた点滴を鎖骨下動脈(太い血管)から注入する。
そして重症患者さんは使用する点滴の種類も多い、抗生物質、鎮静剤、強心剤、昇圧剤、降圧剤、利尿薬、インスリン、抗真菌薬、アルブミン製剤、ステロイド剤などこれ以上に使用することもある。そして病状が変わる毎にどんどん治療方法が変わっていく。

さて、このような状況でどの順番で点滴を投与していくか考える。

これも薬剤師の仕事の一つである。

「医師が考える治療」「看護師の手技と手間」「薬剤の特性」「患者さんの利益」を踏まえて私は投与タイミングを計画する。
太い血管からは多くて3つの投与ルートがとれる。
(患者さんに挿入されている管は1本だが、中がレンコンのように3つの穴が開いており、それぞれ点滴を注入できる枝がある。)
薬剤師としては3つのルート(トリプルルーメン)があるとありがたいが、使用しなくなると生理食塩水やヘパリンという薬剤で血が固まらないように処置をする必要がある。
これは看護師にとっては手間になる。
そして、患者さんの感染リスクも上がってしまう。
今の状況でどのルートが必要か医師と相談することもあった。
重症で多くの薬剤が必要であったにも関わらずシングルルーメンを入れたという絶望する場面もあった。

薬が化学反応を起こして、点滴チューブが詰まってしまうとカテーテルの入れ替えを行わなければならない。
目には見えなくとも、薬剤の効果が「低下」または「無」になってしまうこともある。
これを避けるために、私たち薬剤師はいる。

「誰にも不利益が生じないように。」

医師が投与したい薬剤の効果を確実に発揮できるように。
看護師が安全に間違いなく投与できるように。
患者さんが薬の恩恵を全て受け取れるように。

日々、いや、刻一刻指示が変わる点滴投与を行う看護師の緊張感は計り知れないものがある。
これはあくまでも私の方法だが、原始的にここは「紙と色ペン」を用いて「図と絵」を用いて順番を示している。
もちろん、使用後は記録として電子カルテに取り込む。
ベテラン看護師さんにも新人看護師さんにもわかる方法で共有する。
これが安全性を高める方法だと思っている。
そして、自分がいい方法だと考えたとしても、相手がそう考えるとは限らない。
必ず使用する看護師と相談することが大切である。
相手が分かりやすいかどうかが一番大切なことだ。

私が病院を辞めた後、相棒だった医師と飲みに行った際、この点滴ルートの絵の話になった。
まさか見ていたとは知らなかった。
意外に見ていたんだと驚いたが、自分の行動は必ず誰かに見られていると再度考えるきっかけになった。実直な行動を常に心がけ、行動していきたい。

薬剤師の仕事は、医師の出した指示を確認する仕事が多いため面倒だと感じられたり、忙しい時は、若干鬱陶しさを感じられる事も多いが、そこを諦めず、譲らないからこそ安全性の最後の砦になれると考えている。そして、その積み重ねが医療現場で薬剤師として信頼を得るために必要だと感じている。

同じ職場で働く仲間の信頼を得られれば、多くの情報が入ってくる。
そうすれば、患者さんの現在の問題点、解決すべき事象が浮き上がってくる。
そして、薬剤師として手助けできる方法を探すことができる。

急な入院で焦っている患者さんの家族、どういう状況かわからなくなっている患者さんに薬を通してアプローチし、薬剤師目線で寄り添うことができる。

もう一つ、調剤薬局で外来と在宅医療を経験したことで、退院後の患者さんの生活をより具体的に想像して治療に参加できるようになった。病院は患者さんや患者さんの家族にとって非日常である。
日常に戻ってからがその方の本当の生活、人生だ。
決して「薬」を毒にしてはいけない。
その方の人生を助けてくれる「薬」にしなくてはいけない。

私が妹の治療に感じた疑問を、患者さんと患者さんの家族に感じさせてはいけない。

私が理想と感じている、このような行動ができるかつて勤めていた病院に戻ることになった。
仲間がいることは本当にありがたい。
どこでもこのような行動が許されるとは思っていない。

同じ志を持つ仲間に出会えたことが私の人生の宝物です。

また、これからよろしくお願いします。

【最後まで読んでくださった皆様へ】
長文を最後までお読みいただきありがとうございます。
まだまだ発展途上の私ですが、出会えた方々に感謝し、現状に満足せず、目の前の問題に対して真摯な姿勢で挑んで参りたいと考えております。

所信表明として自己紹介文をポストさせていただきました。
どんな場面でも、学びがあるはずであると思いながら生きています。
「医療」「薬」から感じたもの、私の大好きな「旅」から感じた人と人の繋がりをお話しできればと考えております。

よろしければ仲良くしていただけると幸いです。

よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。
翡翠(@hisu.79)


Instagramで旅の振り返りもしております。
よろしければご覧ください。

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